滲む世界の光

 ずる、ずる、ずる。
 身体が痛みでうまく動かなかった。一歩足を踏み出すたびに全身に激痛が走って、かみ締めた唇から苦しげな息がこぼれる。足を引きずるようにして、前へ。ただ前へ。身体は痛んだが、心がもっと痛かった。痛いほどに激しく脈打っていた。ずきん、腹部が痛みを通り越して熱だけを伝える。気にならない。気にはならなかったけれど、身体が崩れ落ちそうになる。
(こんな、ところで…っ、立ち止まってる場合なんかじゃ、ない!)
 ぎりぎりのところで持ちこたえる。ふと目に付いた手すりに手を伸ばそうとして、けれど背筋を這う悪寒と全身の激痛に、指先が手すりに届く前に思わず胸元を服がくしゃくしゃになるほど握り締めていた。息が止まるかと思った。ひゅー、ひゅー、と、呼吸をするだけで痛みが広がっていく。身体が発信する痛みという危険信号を、しかしイワンは無視してまた歩き出した。走れないのがもどかしい。足はゆっくりと、一歩ずつしか進んでくれない。いますぐにでも駆け出したいのに。
 走っていけばすぐにでもたどり着ける距離が、今はこんなにも遠い。一歩一歩確実に進んでいるはずなのに、心が焦って先を急かして。まだつかない。彼のもとへ、まだ、たどり着けない。
 痛みからくる熱と絶望に似た悲しみと憤りに足元から崩れていきそうになる。今度こそ手すりをつかむ。すこしだけ歩きやすくなる。すこしだけ歩くスピードが早くなる。
 医師と看護師がばたばたと走り回って対応している音がする。
「っ、折紙サイクロン…!?なにをしているんですか!病室に戻ってください!!」
 壁に、手すりに支えられるように、ふらつきながら歩くイワンに看護師が血相を変えて駆け寄った。その身体を支えるように手を回そうとして―すみれの瞳に睨まれる。その視線に躊躇した看護師は、それでもイワンを病室へ戻そうと再度手を伸ばした。彼の怪我は、まだベットで安静にしなければいけない状態なのに。こんなところでなにを。看護師に肩を支えられて、イワンは唇をかんだ。看護師が自分を病室に戻そうとする、その行動の理由がわからないわけがない。けれど―けれど。今、イワンにとって大事なことは、自分の身体のことではない。…シュテルンビルトの人々のことでもない。そんなことではヒーロー失格だと心底思う。人としてどうかとも思う。それでもイワンにとって今一番大事なのは。
「虎徹さん…ッ」
 ―さきほどICUに運ばれ、今まさに生命の危険に晒されている虎徹のことだ。

*

 それを聞いたときの感情を、どうあらわせばいいのだろう。
(タイガーが)(重症だ。集中治療室に)(急げ。急げ!)
 ただでさえスカイハイとロックバイソンが敗北し、ピリピリと緊迫した雰囲気が広がっている中、急に騒々しく幾重もの声が響く。病室のベットの上でただ見ているしかできないイワンは、片時もテレビから視線をはずさなかった。―ワイルドタイガーが、何度も攻撃されるのを。見ているだけの自分に虫唾が走った。どうか。どうか無事でありますように。今のイワンにできることは祈ることだけで―けれど、その祈りは聞き届けられていなかった。
 響く声の内容を把握して、震えるからだを止めることができなかった。
(…虎徹さん、が、)
 集中治療室。そこに運ばれたということは、生命の危機であるということ。死の可能性があるかもしれないということ。虎徹が、もしかしたら。
 ガタガタと震えが大きくなる。冷や汗が止まらなくなる。

 世界の光が、滲む音がする。

*

 会いたかった。あのお節介で優しい声が聞きたかった。あたたかなはしばみ色のひとみを見たかった。大きくて傷があって、全てを守ろうとする手のひらに触れたかった。
 痛むからだなんて気にならない。崩れ落ちそうになっても、気合だけで立ち上がった。もう少し。もう少し歩けば、彼の病室に着くのに。こんなところで立ち止まる暇などない。
「離してください…!!」
 肩に回った看護師の腕を振り払う。それは弱弱しい力で、看護師の腕を振り払えるものではなかったけれど。けれど看護師は、すみれの瞳の悲痛さに思わず腕を離した。イワンを病室へ。それが正しい選択で、イワンもそれをわかっているはずだ。―なのに。看護師はすみれの視線に貫かれて動けない。その看護師を呼ぶ声が聞こえてため息をひとつ。看護師は「絶対無理はしないように!用事が終わったら病室で絶対安静ですからね!」と言い聞かせて踵を返して早足に去っていった。きょとり、イワンの鋭かった視線が幼く瞬く。とりあえず、見逃してもらえるらしい。それがわかったイワンは、再び歩き出した。
 ずる、ずる、ずる。
 足を引きずる。息があがる。それでも足を止めることなんてできない。一目でいい。彼の姿を見たかった。声が聞けなくてもいい。触れられなくてもいい。
 ただ、彼が生きている姿を、見たかった。


 ぺたん、と。
 とうとうイワンは膝をついた。それは激痛のためではない。…安堵と絶望でである。目の前に厚いガラスがある。そのガラスの向こう、さまざまな機器を繋げられて―虎徹が、死んだように眠っていた。生きていた、という安堵と、怪我の酷さに対する絶望と。横たわる虎徹を見た瞬間、イワンの膝からは力が抜けて。
 ぺたり、ガラスに触れる。…届かない。虎徹のもとにたどり着けたのに、イワンの手は彼には届かない。いまだ意識が戻らない虎徹の顔はひどく青ざめていて、イワンはガラスに爪をたてた。ギイイ。いやな音がする。彼の姿をまぶたに焼き付けたいのに、じわ、と、目の前がにじんでいく。ひくり、喉が鳴った。
「虎徹、さん…虎徹さん……!」
 ひっ、と。か細く悲鳴のような声があがる。滲む視界をどうにかしようと手であふれるものをぬぐうのに、世界は滲んだままだった。涙がとまらない。彼の姿がにじんでよく見えない。無事に目を覚ましてほしかった。いつものように、頭を撫でてほしかった。「大丈夫だ」と、あの声で、あのまなざしで言ってほしかった。けれど今、この涙を止められる人は、ガラスに遮られた向こう側で眠っている。
 涙があふれる。嗚咽がこぼれる。ガラスに額を当てて、少しでも彼との距離を縮めた。けれど視界がにじんでよく見えない。けれど涙はとまらない。

(…世界が、よく、見えない………)

 イワンにとって、虎徹は光のような存在で。けれど今のイワンには、光が滲んでよく見えなくて。
 世界が暗く閉ざされた気がした。