言食の獣

オブリヴィオン/夢

 古いインクと乾いた紙のにおいを纏って古びた空気が積もっていく。本を捲る音。ささやかな木の香り。ステンドグラス越しにゆらめく、色づいたランタンの輝き。柔らかな白藤色に照らされた店内には、天井近くまである背の高い本棚が所狭しと並んでいる。擦れきってタイトルが読めない本、角がまあるくなっているハードカバー。ジャンルも大きさもバラバラなたくさんの本がぎっしりと並べられたその棚の奥。店内に唯一ある、レースのカーテンが閉められた窓を背にしたカウンターに、そのうつくしいひとがたがいた。
 煤色の髪。蝋のような白い肌。藤にも紫陽花にも見える不可思議な紫の瞳。空恐ろしさを煮詰めたような蠱惑的な美しい相貌が一切の物音を立てずに本を読んでいる様は、職人が生涯をかけて作り上げた最上級のビスクドールを思わせる。細いメタルフレームの眼鏡も、それに繋がるトンボ玉の連なるチェーンも、彼のために誂えられたうつくしさを形作る装飾品だ。
 カーテンを通り抜けたそよ風が彼の髪を揺らして、花香の残滓を残しながら堆く積まれた本の合間を走り去る。揺れた髪にほんのかすかに目を細めた動きが、彼が人形ではないことを示していた。
 斯くも美しき非日常。古く美しいものたちが眠る静謐。英知溢れる古書の住処。その絵画の様な光景は、カウンターに座る彼の瞬き、次いで、零れるような吐息だけの笑いに切り裂かれた。手元の本を閉じて顔を上げる。視線の先で真鍮のドアノブが回され、木製のドアが軋みながら開かれる。ちりん、と涼やかに響き渡る鈴の音。差し込む日差しを遮っている人影は、彼に負けず劣らずの美しさを持つ青年だ。
 艶やかな白い髪。月光を集めて蜜で閉じ込めたようなきんいろの瞳。微笑みひとつであらゆるものを虜に出来得る美貌は、カウンターの彼と視線が合うと、途端に幼子のように笑み崩れた。
 華やぐ空気を引き連れた青年は慣れたように本棚を避けてカウンターへ歩む。椅子に座っていた彼は、先程までの人形然とした姿勢の良さを崩して、頬杖をつきながら青年へ手を振った。
 青年はカウンターの前できんいろの瞳を煌めかせて両腕を広げる。そこには彼へのありったけの親しみが込められていた。

「ああ長谷部、会いたかったぞ!」
「毎度毎度飽きないな。昨日も会っただろう、鶴丸」
「いつだって会いたい気持ちでいっぱいなのさ」

 呆れたような、慣れたような、けれども柔らかな長谷部の眼差しに、鶴丸の真白の美貌が甘やかに蕩ける。目が眩まんばかりの咲き綻ぶ花のかんばせ。普通では在りえない色彩が空想上の美しさを現実にする。おおよそすべての人間を篭絡できる微笑みを浮かべた鶴丸は、そのまま流れるようにカウンターへ回り込むと長谷部の隣の椅子へ腰掛けた。そうしてふたりが揃ったならば、さあ、この店のドアは客人へ開かれる。
 柔らかなランタンに照らされた本の積まれた棚。カーテン越しの橙の日差しは黄昏か、あるいは朝焼けか。カウンターには最上の美しさをもつひとがたがふたつ。
 古く美しいものたちの眠る、文字を愛する番人の住処。
 店主がひとり。藤と紫陽花の瞳をもつうつくしのけもの。眠る番人。
 店員がひとり。月光を集めた瞳をもつ芳しい極上。囲われたけもの。
 人の世のものとは思えない不可思議の空間。招かれた客人だけが足を踏み入れることができる泡沫の夢を見せる場所。
 人々に秘匿すべき魔法で編まれた、呪いを振りまく忌むべき禁書を詰め込む封印地。同時に、禁書を誘い込む疑似餌。
 ―あまりにも知られざるその店は、店主の瞳に因んで、藤乃古書店とだけ呼ばれている。


君だけの虚構に告ぐ

 この世とあの世の間で白紙の本だけを売っている不思議な本屋があるらしい、と聞いたのは、どこでだったか。夢現だったような気もするし、噂好きの先輩のいつもの法螺話の延長だった気もする。
 黄昏に沈む藤の垂れる一本道。その入口に立てた者だけがたどり着ける、美しい店主がいる古書店。木製のドアに真鍮のドアノブ。藤を象った華押。美しさを義務付けられた完成した絵画の光景。風が頬を撫でて、そこで初めて意識が覚醒した。
 何故自分がここに立っているのか、直前までなにをしていたのか、まったく覚えていないことにゾッとした。学校で授業を受けていた気がする。部室で先輩と話していた気がする。帰宅してソファで本を読んでいた気がする。布団に潜り込んでスマホを触っていた気がする。辺りを見回しても見えるのは一面の黄昏と藤の覆う石造りの道。そして目の前に佇む小さな本屋。それ以外はない。後ろを振り返っても道が只管に、果てまで続いているだけだ。身に着けているのは学校の制服のみ。いつもポケットに入れているスマホも、小さな飴も、シャープペンシルも、そう、家族写真を挟んだ手帳もない。であれば、これは夢だ。手帳だけはなにがあっても手元に置いている、そういう習慣がある。
 なんだ夢か、と、一気に気楽になった彼は、美しい風景を楽しみ、そしてなんの警戒もなく本屋のドアノブに手をかけた。好奇心に心を躍らせていたともいえる。美しい風景の中の美しい本屋。店内もきっと美しいに決まっている。なにせこれは、そう、美しいだけの夢なのだから。
 嗚呼、だから。まさか、己以外の人間がいるだなんて、思ってもいなかった。
 ドアノブが力を入れていないのに勝手に回る。軋みながら開かれるドア。小さく鳴り響く鈴の音。花の香りがインクのにおいと混ざり合う。ほのかなランタンの明かりだけが店内を薄らと照らしていて、その中で輝かんばかりの真っ白な髪を揺らしているその人は、ドアを開けた格好のまま、呆然としている彼を月色の瞳で見下ろしていた。
 あまりの人外じみた色彩の美しさに、彼は言葉が出なかった。息さえ止めていただろう。人間らしさのない美貌だった。綻びがまったくない、うつくしいだけの生き物だった。儚げに見えるその花のかんばせは、けれど、浮かべられた笑みに印象を覆される。子ども染みた明るい無垢さ。楽し気に笑った真白の人は、未だ固まったままの彼に店内が見えるように身体をずらした。その動きに釣られて彼の視線が店内へ向く。溢れるほどの本が並べられた本棚。ステンドグラスで出来たランタン。そこかしこに飾られた季節感を無視したさまざまな花。そしてレースのカーテンが閉められた大きな窓、それを背にしたドアの真正面にあるカウンター。
 ぎゅう、と彼は手を握りしめた。瞬きができなかった。真白の人も恐ろしいほどの美貌だったが、その美貌と並ぶことのできる冷ややかな相貌が、藤色の眼差しでこちらを射抜いている。氷のような透き通った透明さ。刀の血濡れでもなお輝く白銀の美しさ。あるいは銀細工のような無機質な美、人では持ちえない佳麗さ。ああ、ひとではない。こんなにも燦爛たる麗人は、ひとの枠ではありえない。
 ひとのかたちを真似た、ひとに似たなにかだ。

「―ようこそ、まろうど。迷える人の子」

 玲瓏たる声音だった。藤色のひとの声も、それに伴う真白の人の笑い声も。低く艶やかな、やさしさを含んだ、けれど硝子を思わせる心地よい声。魅入る。聴き入る。脳髄が溶かされて支配されていく。恐れと怯えが藤に飲み干されていく。
 またたきをひとつ。藤のひとが緩やかに笑みを作る。その一瞬一瞬がどうしようもなく優艶であった。背筋を撫でられているような瞬間が積み重なって、ようやっとそのひとの笑みが花開く。花の香りの風とともに揺れる薄墨の髪。青と紫の間を行き交う藤の瞳。真白の肌の上で一際目を惹く艶めかしい薄紅の唇が、完成した弧を描いて。
 宗教画のような神聖さも、情欲を煽る淫靡さも、日常を象るあたたかさも、その全てを含んで、その全てと違う。
 ―人形だ。見る側の受け取り方で、同じ表情を浮かべているはずの人形に対する捉え方は様々。藤のひとの笑顔はそれと同じものだ。
 己はそう、ああ、そうだ。
 …かみさまのようだと、思ったのだ。
 真白を隣に置く藤色のかみさま。ひとを真似たなにか。その美しさへ感じる震えさえ夢なのだろうか。夢なのだろう。果てまで続く黄昏も、一本道を彩る藤も、静かさに満ちた本屋も、きんいろのめのひとも、ふじいろのめのひとも。脳髄が溶かされる。微睡むような心地よさに体中が支配される。心の奥底、しまいこんだ箱の固く閉じた蓋がそおっと開かれていく。
 夢の中なのに眠くなって、なんだそれはと面白くなって笑ってしまった。いつの間にかカウンターの藤のひとの向かいに座っていて、笑う彼を藤と白のふたりは柔らかに見つめている。

「きみ、なあ、きみ。そう、きみだ。傷つき迷い込んだ眠りの子羊。帰り道がわからないのかい?」

 ぼんやりとした眠りに落ちる寸前の微睡の中、真白の低く軽やかな声が染み渡る。帰り道。いいや、帰り道はわかる。帰る場所も覚えている。生まれた家。家族の待つ場所。このまま夢の中で眠れば帰れるのだろうということを知っている。だってこれは美しいだけの夢だ。起きれば帰れる。そういうものだ。
 だから、帰り道がわからないのではない。帰りたくない。

「ふむ、反抗期というやつか?それとも事情があるのか?」

 藤のひとの不躾にさえ聞こえる質問に、けれど不快感も不信感も浮かびはしなかった。まどろみ。羊水の中を揺蕩んでいるようなあたたかさ。身体も心も安堵で満たされ、危険などなにひとつないことを本能が悟っている。藤も真白も夢の中のかみさまだ。ならば、ならば、嗚呼、言っていいのだろうか。
 神への懺悔は、許されるのだろうか。

「………そうか、そうだな。許そう。帰らぬ子羊。夢の中の言葉など、現実になにも齎しはしない。特にこの藤の中での告白は、なにものにも許される」

 藤のひとの無機質な美貌を裏切ったあたたかな声に、心の奥底、しまいこんだ箱の中に詰め込んでいた呪いが溢れる。悲鳴と泣き声、黒々とした後悔、彼自身に向かう彼からの呪い。空気がさざめく。陽だまりの暖かさが夜の冷たさに塗り潰されていく。羊水のまどろみが溺死し得る苦しさに取り替わっていく。空中から染み出るように溢れる黒い文字。踊るように彼を取り囲むそれを藤のひとがじっと見つめる。
 懺悔だ。その踊り狂う文字こそが彼の懺悔。後悔の証。
 双子の兄に身を挺して車から庇われ、己だけ生き残った彼の虚無と後悔、悲痛の記録。お前だけでも生きていてくれてよかったと言ってくれる裏で、彼に見えぬところで兄にも生きていてほしかったと泣く優しい両親にも、ましてや腫物を扱う様に接してくる他人になんて言えない言葉。なぜ己だけが助かってしまったのか、なぜ兄は己のようないい子ではない弟を助けたのか。飲み込めない感情を書き殴った手記。それに書き込んだ荒れた文字がぐるぐると彼を取り巻き、その文字の中で大粒の涙をこぼす彼に、藤のかみさまはやさしくほほえんだ。

「お前はそれで、兄は死した後、後悔して自分を恨んでいるのだと思ってしまったんだな。だから不幸に、不運に、不順に出会っても受け入れてしまったんだな」

 藤のかみさまの柔らかな声と、ばかだなあ、と言う真白の人の笑いを含んだ声が響く。兄の呪いならば受け入れなければいけない。でなければ、兄が報われないだろう。だって兄は彼を庇って死んでしまった。こんな出来損ないの弟なんかを庇って。

「弟だから庇ったんだ。お前の兄はお前を呪ってなんかいない。かわいくて脆い人の子、目を開け。まどろみは終わりだ。夢も終わる。お前の呪いも終わるだろう。迷わず家族の元へ帰るんだぞ」

 ささめくような笑い声。涙を散らして顔を上げた彼は、自身を取り巻く文字が解れていくのを見た。滲むように薄れる黒。その黒い紗幕の向こう、藤と真白が揃って手を振っている。藤のかみさまは仕方ない子だとでも言いたげに。真白の人は悪戯気に。
 花の香りが強くなる。遠くで鈴の音が鳴っている。あたたかな眠気で瞼が下りていく。ああ、夢から覚めていく。美しく優しい夢が終わっていく。彼はもう一度ふたりを瞳に映そうと、気力を振り絞って重い瞼を上げようとした。けれどそれは伸ばされた指に止められる。瞼に触れたのがどちらの手なのかはわからなかった。手のひらでおおわれて視界が真っ暗になる。意識も暗く閉ざされていく。

「もうこんなところに来たらだめだからな、きみ!」

 眠りにつく寸前に聞こえた声は、軽やかな白。
 ―ああ、きっともう、来れないのだ。果てまで続く黄昏、藤の垂れる道、うつくしいものの住まう本屋。鮮烈な藤と真白。刹那の邂逅。泡沫の夢。一夜だけ許された訪問。
 うつくしい夢のうつくしいかみさまに懺悔は聞き遂げられた。ならば。
 あとはもう、まどろみに身を任せて落ちるだけだ。


そして、ふたたびのさようなら

 眠たったまま泣いていたのか瞼が腫れて重かったが、目覚めはいままでになく晴れやかだった。兄が亡くなってから初めての健やかな朝だった

「………ゆめ、」

 夢を見ていた。兄が弟を叱る夢。泣き縋る弟を抱きしめて、泣き笑いの表情でさようならと手を振る夢。目を開く。もういない兄に後悔を押し付けて、なんで死んでしまったんだと泣き喚く自分を抱きしめてくれた兄のために。これから先、生きていく自分のために。
 懺悔は終わった。夢も終わった。後悔は未だ胸の奥に燻っている。悲しみは根付いてしまっている。けれど、そう。全てを抱えて生きていくのだ。


オブリヴィオン/現

 ゆらめくランタンの灯り。それに溶けるように眠りに落ちたまろうどの姿はもはや店内のどこにも見当たらない。ひだまりも夜風も混じり合って消えている。残ったのは文字の残滓とカウンター前の誰も座っていない椅子、長谷部の手元にある本だけだ。
 ぱたん、と、長谷部はその本を閉じた。皮で出来た日記帳。まだ新しいその本には、双子の弟の虚無が詰め込まれている。荒れ狂う文字、彼自身を呪う言葉の羅列。刻まれた感情は魔力となり、書かれた文字は魔法となる。呪いを書き込まれたその本は、彼自身への呪いを完成させてしまっていた。

「宿主が平凡な子で良かったなあ、長谷部」
「本当にな。呼び込むのも忘れさせるのも楽だった。宿主の望みを叶えることに特化したタイプの言喰は面倒だ」

 例えば殺人願望。例えば他人の悪口。例えば人では叶えられない奇跡。例えば創作された空想。それが書かれれば、それが叶ってしまう。どんなに在りえない事象も作ってしまえる。どのような犠牲を出しても。どのような被害が起こっても。奇跡を為せる本。恐らく人の世に放り込めば万難を排してでも手に入れようとする人間が溢れるだろう禁書。それが辿り着いた宿主は、家族を亡くした故に自身を呪う一人の子ども。

「それにしても今回、きみはあの子にずいぶん優しかったな?笑顔の大盤振る舞いだ!兄に会わせる夢まで見せて!」
「………ひとときの逢瀬は、かわいいこどもへの詫びだな。ここでのことはすべて忘れさせるんだ、そのくらいのアフターケアはしなければいけないだろう?」
「うん、まあ…わかってはいるんだ………でも俺だってきみの笑顔を滅多に見れるわけではないのに、ずるいじゃないか」

 おや、と長谷部は長い睫毛を震わせた。そっと鶴丸の顔を盗み見れば、花の美貌がほんのすこし拗ねたように唇を尖らせている。―おや、と長谷部は笑み崩れた。思わず、といったそのいとけない笑みは、氷のような冷たさも、刀のような煌めきもない。人形のような計算され尽くした完璧さもない。
 頬は花弁のように淡く色づいている。藤と紫陽花の瞳はまるで灯火のように優しく揺れて、咄嗟に白い手袋を纏った手で押さえられた口元からは楽し気な笑い声が漏れている。長谷部の身体の揺れにつられて眼鏡のチェーンが揺れてしゃらしゃらと音を鳴らす。ひとのかたちをした非日常、空恐ろしさを煮詰めた美貌、見る者を震わせる人外の美しきもの。それが楽しそうに笑う様に、長谷部の美貌を見慣れている鶴丸さえ息を呑んだ。目を奪われる。その美しいものを見つめるだけの木偶の坊に成り下がってしまう。
 故意なき魔性は性質が悪い、と鶴丸は頬を赤らめて、何度彼に惚れ直せばいいのかと頭を抱えた。
 古書店の主。禁書の番人。稀有な魔法使い。鶴丸を窮地から救ったヒーロー。長谷部に惚れこんだ鶴丸が押しかけても仕方がないなと受け入れたうつくしのけもの。もう随分と世話になっているのに、鶴丸の恋慕は募るばかりでちっとも減りやしない。

「笑うなんてひどいじゃないか…」
「ああ、いや、ふふ、すまん。拗ねてる鶴丸がかわいくて、おもわず」

 鶴丸の麗しの美貌が盛大に歪む。すきなひとにはかっこいいと言ってほしい。ああ、しかし、悲しいかな。五条鶴丸の愛しの君は鶴丸よりはるかにかっこいい、彼のヒーローであったのだ。
 カーテンをゆらす風が赤くなった頬を撫でていく。鶴丸がむっすりと黙り込んでいるうちに、まろうどの残した文字は消え去り、全てが長谷部の持つ本に収まってしまった。その本に封じのための符を貼りながらしばらくくつくつと笑っていた長谷部は、眼鏡を外して目元を拭う。その涙で濡れた瞳があまりにも艶やかな藤色で、鶴丸はへんにゃりと唇を曲げてしまった。長谷部のしなやかな指先が拗ねる鶴丸の頬を抓む。月光を閉じ込めた神秘的なきんいろの瞳は子どものように煌めいていて、長谷部は甘やかすように抓った頬を撫でた。

「そう拗ねてくれるな、鶴丸。俺の店で雇うのはお前だけなんだ、ずいぶん甘やかしてると思わないか?」

 鶴丸は首まで盛大に赤くして絶句した。そうだ、この古書店にまろうど以外の人間は誰も訪れない。訪れてもそれは一夜の夢、泡沫の刹那。だれもこの古書店の存在を覚えてはいないのに、鶴丸だけがそれを許されている。
 それは特殊な立ち位置の長谷部にとって、ひとりきりでずっと古書店でまろうどを待つ長谷部にとって、どれほどの特別なのだろう。
 鶴丸はこのうつくしい藤に頭のてっぺんからつま先、心のすべてを掻っ攫われた心地で、甘やかな、傾国よりなお罪深いうつくしい微笑みを見つめるしかできなかった。その微笑みさえ、鶴丸だけの特権だった。
 鶴丸は震える指で長谷部の頬を抓み返しながら、もう、笑うしかできなかった。驚きといとしさでいっぱいいっぱいだった。
 ああ、なんて、なんて、いとおしい主人なんだ!
 そう心の内で盛大に叫んだ鶴丸は、勢いのままに長谷部へ抱き付いた。煤色の髪に頬を寄せる。花の香りが強くなる。首に回された鶴丸の腕に手を添えて、長谷部はまたひとつ楽し気に笑みをこぼした。
 ―それは、古く力のあるものたちが眠る、静謐が彩る終の住処の主人が愛する、あたたかなひだまりの光景だった。