マイネームワズ
幽鬼のような薄らぼんやりした真白い手が、誘うように川面で揺らいでいる。
皮と骨ばかりの、30センチほどしかない餓鬼が、耳障りな叫び声をあげながら足元をうろついている。
薄皮一枚で繋がった首を骨の見えるほど欠損した腕で支えながら、無くした片目を探して彷徨う男がいる。
細い触手が連なって出来た鳥が、その触手を落としながら滑空している。
人の皮でできたローブを纏った痩躯のシルエットが、行き交う人々を品定めしている。
臓物を撒き散らしている女が、自身の腸で首を吊っている。
―それら全てが、僕以外に見えていない。
この眼は様々なものを見てしまう。移植されて数週間は、波どころか大洪水で迫ってくる数多の情報にのた打ち回った。ある程度情報を受け入れられるように脳みそを無理やり適応させた後は、見えすぎる世界に発狂した。現世、幽界、異界、異世界、神界、冥界、どっかのゲームのシステムみたいに、あらゆるモノの成り立ちやら材料やらまでも。挙句に人の心のうちまでも見えて、義眼を制御できていなかった時のこととは言え、最悪なことをした自己嫌悪でまた発狂した。
瞼を下ろしても闇は訪れない。ランダムにあらゆる映像が瞼の裏で踊って、数か月は睡眠不足で死にかけていた。
人の死に様など慣れてしまった。どのような拷問を見ても何も感じなくなってしまった。生理的嫌悪を催すであろう生き物を見ても平気になった。眼を通して脳内に瞬間も待たずに蓄積されていく膨大な情報を、まるで機械のように感情を持たずに処理できるようになってしまった。
自分の心が壊れていく様が、厭きれるほどはっきりとわかる。わかるのに、壊れたくないと泣き叫ぶこともしなかった。駄々をこねることさえできないほどに、疲れ切っていた。
いっそ壊れてしまえば楽になるのだと安らぎを感じていたくらいだ。
だから結局、感情という機能がぶっ壊れて不便に感じたことはない。別に僕が無感情になったとかそういうわけではないのだ。ただ―ミシェーラ以外のあらゆるものが、テレビの画面の向こう側の出来事であるように感じるだけで。ドラマで殺人事件が起きたときに、ああ、かわいそう、こわいなあと感じるような。僕はそんなモノに成り果てた。
ミシェーラの視力を取り戻すこと以外で、本当の意味で心が動くことがなくなった。それを知られてしまえば、優しく愛しいミシェーラが悲しみ、怒り、泣いてしまうことなどわかりきっていたことなので、勘の良すぎる彼女さえも騙せるように感情が壊れる前の僕を演じた。最早以前の僕に対してさえ、演技できると思えるほどに、今の僕はアホらしいぐらい感情が動かなかったのだ。
そうして移植から半年、神々の義眼保有者であるレオナルド・ウォッチは、出来上がった。
*
異界と現世が交わるヘルサレムズ・ロット。魔都とは言い得て妙である、と、レオナルドは改めてしみじみと思った。今日も今日とてどこかで爆発が起こり、富を得ようと暴動が起こり、暴動のせいでとある組織に内部分裂が起こっている。ちなみに内部分裂の原因はレオナルドである。
神々の義眼を欲しがる牙狩りのどこかの誰かが、レオナルドを手元に欲しいと宣っているのだ。なぜミシェーラの視力回復から遠ざかるような、レオナルドにとって無価値も同然な実験じみたことに付き合わなければならないのか。レオナルドの内心は黒々とした怒りで燃えていた。やさしいだとかいい人だとか言われるレオナルドだが、ミシェーラに関しては苛烈だ。その苛烈さは、たった一人でヘルサレムズ・ロットに乗り込んできて、殺されるかもしれないのにライブラに突撃してきた時点でお察しである。
しつこくメールやら電話やら果てに無事に届く保障もない手紙やらを送り続けてくる相手は、とうとうヘルサレムズ・ロットにやってきてしまった。その背後には義眼を研究したい外道共だったり、義眼は確実に手元に置いておくべきだという牙狩りの上層部がいたりするので、なかなか侮れないとスティーブンはこめかみを抑える。さてどうするか、と騒然となったライブラの事務所の中で、騒動の原因である、パッと見ロマンスグレーで紳士なその人物と研究者であろう男は、レオナルドを前に熱心に言葉を重ねていた。そのあまりの酷い言い様に思わず立ち上がりかけたクラウスは、けれど不意にふつりとナニかが切れる音がして動きを止める。ライブラの歴戦の面々の勘が警鐘を鳴らし、ばっと一斉に視線を一か所に向けた。
そこには表情の抜け落ちたレオナルドが物音もたてずにソファに座っていた。
散々遠回しにお前に義眼は勿体ないだとか、使いこなせていないだとか、宝の持ち腐れだとか、ついにはたかが小娘一人の視力をどうにかするより、こちらで義眼を使ったほうが世のためであるだとか、地雷を勇んで踏みつけてくる相手に煮えたぎっていたレオナルドの怒りが爆発したのだ。さっきの音は、レオナルドの理性だとか堪忍袋の緒だとか、最後の良心的なあれこれが盛大にぶった切られた音だ。
「………………あなたがたは、僕より、義眼を使いこなせるとおっしゃるんですね。でしたら。神々の義眼の見る景色を一度見てみませんか?」
見せてもらえるのか、と、興奮したように立ち上がった男たちに、レオナルドは変わらず無表情のまま頷いた。異様である。いつもは情けなく、けれど愛嬌のある細目が、なんの感情も見せずに天上のあおを晒す。頭の痛くなるほどの警鐘に、ライブラの、それこそ常に冷静なスティーブンさえ反応できなかった。露わになるあおを止められなかった。怖気が走る。悪寒がはしる。今のレオナルドに近付いてはいけないと、彼は一般人ではないと、彼らの本能は理性を押さえつけて訴えていた。
ゆっくりと開かれる瞼とともにレオナルドの口元に陰惨な笑みが浮かぶ。普段の様からは想像できないような、彼らしかぬ嘲りを押し出した笑みだ。
そんな笑みに気づかず零れ落ちるあおい光に魅入る男たちであったが、レオナルドの瞼が完全に上がった瞬間、ひゅう、と細い呼気をもらした。
飛び出さんばかりに見開かれる目。音を立てて血の気の引いた白い顔。ぶるぶると震えだす体は、涙も鼻水も涎も、汗も、尿さえも吐き出しながら力を失いへたり込む。ひいひいと怯えるように喘いで視線を上下左右に動かし、ソファの背もたれで下がれないのに、何かから逃げようと背もたれに身体を押し付け続けている。
声にさえできない悲鳴を掠れた息を共に上げ続け、とうとう目玉はぐるりと回って白目をむいた。それでもなお手足は逃げるようにあちこちに動いている。
痙攣する手足はそのうちぶらりと力が抜けて垂れ下がった。気味の悪い光景だった。まるで人ではなく死にかけの虫のような動きだった。
臭気だけが広がる沈黙はピンと張り詰めて肌を切り裂きそうだ。そんな誰もが動けない中、ただひとり。この元凶であるうつくしいあおいろの、人智を越えた造形物を絡繰る彼だけは、そおっと瞼を下ろしたあと、はあ、とため息を吐いた。困ったように目じりを下げている姿は常の人の良いレオナルドそのものだ―彼の目の前に横たわる汚物を見なければ。
「クラウスさん」
困ったような顔をしたレオナルドの困ったような声が、しんとした空気を乱す。呼ばれたクラウスはギシギシと音が鳴りそうな動作でレオナルドを振り返り、人の好さそうな笑みとは反対の冷ややかな細目を見て眉間に皺を寄せた。
逆鱗だったのだ。明らかに、あからさまに、誰もがわかるほどに、男たちの言動はレオナルドの滅多にない地雷を踏みにじった。レオナルドの宝物をズタズタに引き裂いた。結果、レオナルドが怒り狂ったのは当たり前ともいえる。そこに問題はない。そこではない。問題なのは、クラウスたちにはレオナルドが男たちになにをしたのかわからないことだ。
シャッフルではないのだろう。あれを食らったとしても、あんな気味の悪い気絶の仕方はできそうにない。であればヒントに成り得るのは、レオナルドの言った義眼の景色を見てみないかという言葉。そこまで至って初めて、神々の義眼が見る世界はどういうものなのか、と、嫌な方向に思考が傾く。怯えるように震え、糞尿を撒き散らし、濁った眼をぐるぐると泳がせていた気絶している男たちのこと。気絶しても尚逃げようとしていたこと。
レオナルドくん、と真っ直ぐに見つめてくる碧眼に、レオナルドはへにょりと笑った。
「すみません、汚くしてしまって。まさか10秒も耐え切れずに発狂するなんて、そんな軟弱な精神だったなんて、思い至らなくて」
発狂。発狂?誰かが息を呑む。普段のレオナルドからは想像できないことばかりだ。発狂させるようなことを為したことも、それをまったくのいつも通りの様子で告げてくることも。
「それ、そう、その転がしてしまった人たち、起きたらきっとくるってしまっているので、気絶しているうちに送り返したほうがいいです」
「………狂っている、とは?」
きょとんとレオナルドは無防備に義眼を晒した。そうして、ああそういえば、と、頷く。
「あんまりな言い様だったので、僕の視界を“そのまんま”見せてあげたんです。シャッフル用に調整なんて面倒なことをしていない、ありのままの神々の義眼の世界を。喜んでくれるかと思ったんですけど、案の定耐え切れずに壊れちゃいました」
「待て、まてまて少年、シャッフルは調整?してた、のか?」
「してますよ、一応普通の人の視界に寄せて。あれ、言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないよ!そもそも義眼については文献を集めている最中で知らないことがほとんどだから、君からの申告がないとわからないことばかりだからね!?」
「うわっちゃー」
「しょうねーん?」
「スミマセン!いや僕もこう、諱名読めて幻術見破れればいいのかなって思い込んでたんですってー!何が見えてるかなんて言えるようなものそう多くないんですよお!」
「多くないのかい?それはまたなんで」
「いや、発狂案件ばっかですし」
さらりと言われた言葉にまたも空気は固まる。首を傾げたレオナルドはそれまでの情けない声から感情を排して、いっそ機械的に微笑んだ。晒されたままの神々の義眼、その精緻な術式の奥深く。感情の波が見えるであろうあおからは、濁った色しか読み取れない。
「知らないでいいこと、見えないでいいことです。薄氷の上のこの世界の、その下に眠っている奈落のような白い宇宙のことなんて、知らなくていいんですよ。神々の義眼の視界は、僕だけが見えていればいいんです。微睡の暗闇でさえ敵になりますから」
それはつまり、レオナルドは狂気の世界に身を浸しているということで、眠りで訪れる安寧の闇さえないということなのではないか。神々の義眼には、この世界はどのように見えているのだろうか。様々な疑惑と困惑が悪寒と共に脳内をめぐる。
そんな彼らを眺めて微笑むレオナルドは、微笑んだまま、ただただあおい燐光を零し続けた。
*
首のないヒトガタに似たなにかが、身体についている数多の目玉でこちらを見つめている。
裂けた腹の中に男の頭を埋めている女が、誘うように手招いている。
黒い眼孔から虫を這わせている白兎が、遊ぶように足元を飛び回っている。
腐りきった肉の魚が、腐肉を撒き散らしながら目の前を泳いでいる。
宇宙の果ての異次元のなにかが、面白そうにこの世界を眺めている。
もう慣れてしまった視界の有様はどれもこれも気味が悪いし、邪魔だし、ミシェーラの視力を戻すヒントにもなりはしないし。目の前を横切った目玉だけでできた虫を手で追い払って、レオナルドはため息を吐いた。
今日も世界は元気にくるっている。