終わる話 前
煙草の香りだ。ラム酒とメンソールの混じったような、微かに甘い煙たい匂い。
煙くさいなと黒子は表情を変えないまま窓を開けた。先ほどまで部屋の中で渦巻くように篭っていた紫煙が揺れる。窓から微かに流れてくる風に揺られて、煙の渦はそろりと外へ出て行った。煙草の匂いが、特別嫌いなわけではない。黒子の父はヘビースモーカーだからこそ、それこそ幼少の頃から嗅いでいたその匂いは、嗅ぎなれた「家」の匂いだ。嫌いではない。けれど喉が塞がれていると感じるほどに沈殿した煙は外へ出すべきだと思う。リビングに黒子がいることに気づいていなかっただろう父は、キィ、と開かれた窓の音に「しまった」と煙草を咥えていた口元を歪めた。父の悪い癖だと、黒子は新緑の香りを運んでくる風を肌で感じながら小さく息を吐く。黒子の父は一度作業をし出すと、無意識に煙草を吸いながら、集中力が途切れるか水を差されるまで作業に没頭するのだ。その間に溜まった煙草の煙は、いつも渦巻くように天井付近をぐるぐると巡っている。
「またカーテンに匂いがついて、母さんに叱られますよ」
「黄ばんで色が変わったら買い換えないといけないしなぁ」
いかんなぁ、と呟いて煙草の火を消す。未だ甘い匂いは残っているが、煙はもう渦を巻いていない。こういったことが多々あるので、黒子家のカーテンは割りと早い周期で買い換えることになる。
どうでもいいことですけど、と、黒子は亡羊として視線の合わない瞳を父のいるであろう場所へなんとなく向けた。真黒な世界の中、そこにソファがあって、あっちにテレビがあって。覚えてる家の見取り図に家具を配置させて、人間がどこにいるのかを匂いと音で把握して。
黒子の父からは煙草と新聞紙に、少しだけ汗の匂いと、乾いたような硬い手のひらが擦れるかさかさとした音がする。母からは逆に、すれ違い際に仄かに香る程度の香水(恐らくローズ系だ)と化粧品の匂い、それから、長い髪が揺れるさらりとした音が聞こえる。
今日は父の香りを打ち消してしまうほどの煙草の匂いが蔓延っているが、本の頁をめくる音はする。そちらに黒子の父は、きっといつものように灰皿を吸殻でいっぱいにしてソファに座っているのだろう。…人の体がどんな形をしているかなんて、想像でしか知らないけれど。
黒子テツヤは全盲である。
ランドセルにも慣れだしたか否かの頃に事故に遭い、命は無事に取り留めたものの、この先視力が戻ることはほぼありえないだろうと医者に言われていた。幼かった黒子にはそれがどれほど不便であるかわからなかったし、絶望するには自我が確立されていなかった。物心がついた頃には「みえないこと」が当たり前で、ものの形や質は事故に遭う前に知っているものしかわからずに、ほとんどが想像でしか知らない。
中学入学を迎える頃には、視覚以外の感覚を使って周囲を把握することができるようになっていた。…できるようにならなければ、きっと黒子は死んでいた。
黒子テツヤは盲目であり、人に認識されることが滅多にないほど影が薄かった。それは致命的だ。気づかれずに道に押し出されることは多々あるし、人とぶつかって転んでしまったら踏まれそうになる。自転車や自動車に気づかれずに轢かれそうになることだってあった。実の両親でさえ、黒子が自身の存在を訴えなければ気づくことはない。
それは、幼い黒子を絶望に至らしめた。
見えないことは当たり前だった。視覚以外の感覚―匂いと声で人の識別を、物音と匂いと空気の流れで無機物の位置と人の流れを知ることは、最早黒子にとっては当たり前で、面倒だなと思うことはあれど絶望へは誘うことはなかった。けれど。両親にさえ存在を察せられないということは、黒子にとってただの絶望でしかありえなかった。
誰も自分に気づかない。誰も自分を気にかけてくれない。視線を感じない。両親は優しく誠実な人たちであり、息子の存在感のあまりの薄さに、黒子からアクションを起こさなければ気づかないことに胸を痛めている。それは唯一の救いだったが、黒子の真っ黒な視界の中、希望の光にはならなかった。
―黒子テツヤという存在は、本当に存在しているのか。
誰にも気づかれない自分は、両親にさえも気づいてもらえない自分は、本当に生きているのか。思春期を迎える頃の黒子の悩みはそういうことばかりだ。出席もとられず忘れられることが日常的だったことも悩みと傷を深くさせるばかりだった。
けれどそれも、喉元を過ぎれば―諦めがつく。
黒子ももう20歳で、未だに寂しさと悲しさは感じるものの、自身の影の薄さは理解していた。そうして諦めた。今の黒子の中にあるのは、ただの諦観と寂寥感だけだ。いい親だと思うし、己は恵まれた家庭であるのだろうとわかるけれど、心はいつだって気づいてほしいと叫んでばかりだ。
諦観と寂寥感と、欠けてしまった親愛と。満たされる愛がほしい。心の奥底、閉じ込めてしまった欲望は素直だ。わがままなのだろうな、という自覚はあった。けれど実際、黒子が両親へ向ける愛はひどく希薄だ。途切れそうな細い糸で黒子家はかろうじてつながっている。
ぼんやりと耳を澄ませれば父の呼吸音が聞こえた。
(ああ、また忘れられている)
ついさっき言葉を交わしたのに、父はもう黒子が窓際にいることを忘れている。ボクは幽霊かなにかだろうか。黒子は開けた窓からすべるように入ってくる町の雑音に耳を寄せた。そうやって逃避をしないと、黒子の心は耐えられない。あきらめたからと日々をすごせるほど、黒子の心も意思も強くはなかった。
*
赤鬼。最近よく聞こえてくる言葉だ。他人事のように黒子はその言葉を聞いていた。
赤鬼。ジャンク。ジャンクヤード。欠陥製品。
それらはすべて一人の人間のことを指している。畏怖と嫌悪と好奇心を丸ごと固めたような声で、赤鬼、と呼ばれるその人は――殺人鬼だ。
ここ数ヶ月町中はそのうわさで満ち満ちている。規則も法則性もなく、不定期に手当たり次第に、人を殺して。そしてその場に残されるのは、夥しいまでの血と、むせ返るような匂いと、血管を裂かれた死体だけだ。「まるで絵の具をぶちまけたような」と表現したのはどのアナウンサーだったか。絵の具がどんなものかおぼろげにしか覚えていないから、それがどんな様かはわからない。けれどきっと、生々しいにおいがするのだろう。
テレビやラジオで連日騒がれているその事件は、一向に手がかりが見つからないまま、そうしてこの間も被害者が出たばかりだ。
いつだって被害現場には赤い。人々はその犯人のことを、抑えきれない畏怖と多大なる好奇心をもって、赤鬼と呼び出した。
(まぁ、ボクが被害に遭うということはないでしょうけど)
ざわめく町の音は、ニュースと同じことばかりを語ってくる。日時は。被害者は。凶器は。動機は。
関係のないことだと黒子は一人苦笑した。盲目故にほとんど家から出ない黒子が、通り魔のように襲われる赤鬼の被害者のような事態になることはないだろう。
だから日が暮れるちょっと前、黄昏時の町の雑音を聞くためになんの警戒心もなく窓を開けて。いつものように雑音と雑多なにおいを嗅ぎながら、隣の家の夕ご飯はシチューらしい、とか、近所の八百屋は今売れ残りを出さないために格安で野菜を声を張り上げて売っている最中らしい、とか。そんなどうでもいいことを聞いて、知って、いつも通りの日常にまぶたを伏せた。世界はいつだって黒子の寂しさなんて知らん振りで回っている。
それに感じるのは、最早ただの虚無だ。
(世界はいつも、同じようにまわっている)
ぼんやりと音を聞く。雑音は嫌いじゃない。
ぼんやりとしていたから、数瞬だけ気づくのに遅れた。
隣の家のシチューの香りに紛れる―――残り香のような、かすかな血の匂い。出血のときのような生々しい匂いじゃなく、それは服についてそのまま乾いたような、掠れるような仄かな匂いだ。
普段なら気にしない。怪我をしている人は多々いるし、血の香りが町の中でするぐらいは日常茶飯事だ。
問題は。
その香りが、自宅の前の道路から香ること。近づいてくるたびに匂いは強くなり、それは不愉快なほど強い、むせ返るような香りになったこと。
―まるで、血溜まりの中から来たような。
嗚呼、と黒子は細く息を吐いた。尋常ならざる匂いだ。気づかなかったことが不思議なほど、吐き気を催すほどの血の匂い。赤鬼。言い得て妙だと閉じていたまぶたをあける。見えはしない。けれど、たしかに、黒子の家の玄関からその匂いは部屋を埋めるように漂ってくる。これほどの血臭を纏う人間が普通の人であるはずがない。
赤は血の色だという。色がどういうものかわからない黒子は今までわからなかったけれど、今この瞬間に理解した。
血まみれの鬼だ。なんの因果か運命か、彼或いは彼女の標的は黒子家になったらしい。
殺されるのだろうな、と、感情はまるで麻痺したかのように動かない。両親は匂いに気づいていない。
チャイムの音がして、続くようにドアが開かれる音がした。
「こんばんは」
玄関から聞こえてきた声は、男。ぞわっとたった鳥肌に黒子は戦慄した。恐怖ではない―陶酔からだ。
(なんて甘い、人を虜にしてしまうような―きれいな声)
声だけではなかった。殺人鬼の発しているであろう音は極限まで静かに抑えられていて、服が肌に擦れる音さえささやかだ。血のにおいに紛れて匂う殺人鬼自身の匂いは、はちみつの石鹸のような微々たる体臭だけ。
匂いと、音だけ。それだけでこんなにも美しい人がいるのかと黒子は唾を飲み込む。両親諸共殺されるかもしれないこんな状況で、けれど黒子の胸の内にあるのは痛切な悔しさだった。
(―――…みて、みたい)
どうせ盲目の黒子が抵抗したところで、張り上げられない声をあげたところで、結果はかわらないだろう。今更両親に声をかけたところで不思議に思われるだけだ。死んでしまうなら、こんなにもうつくしい人間を見てみたかった。
悔しいな、と唇を噛んだ瞬間、先ほどの血の匂いを覆ってしまうほどの生臭いにおいが黒子の鼻をついた。
悲鳴さえ上げる間もなく、きっと母は殺された。
不思議と恐怖も悲しみも浮かばなかった。父が大きな音を立てて玄関へ向かう足音がする。そうして二度目の人が倒れる音。きっと血が流れていない床を歩く静かな足音は、黒子のいるリビングへ少しずつ近づいてくる。いっそ気味が悪いほど黒子は落ち着いていて。
(……ボクは)
窓際に立ったまま、黒子はリビングのドアへ身体を向けた。もしかしたら殺人鬼は黒子に気づかずに帰ってしまうかもしれないな、と考えると笑いさえ零れた。
(ボクは、両親に対して愛など抱いていなかったんでしょうね)
悪意なんて欠片もなかった。両親も黒子も、どちらも悪くなんてなかった。
けれど黒子は、黒子を絶望へと落とした要因である両親のことを、きっとなんとも思っていなかったのだ。
血の香りしかしない黒子家の、いつもの黒子の定位置で。黒子は20年ばかりの人生を振り返りながら初めて自覚した。細い糸どころではなく、切れてしまっていた家族という糸を、見せ掛けだけつながっているように振舞っていただけなのだと。
(死に際にこんなこと自覚しなくてもいいものを)
こつり。リビングのドアノブに触れる音がする。しん、とした部屋の中、吐きそうな血の香りの中、リビングと廊下を隔てていたドアが開かれる。
瞬間、ドアで遮られていた夥しいほどの生々しい血の匂いがリビングを襲った。思わずのどまでせり上がってきた胃液を抑えて、黒子はドアのところにいるであろう殺人鬼へ合わない視線を向けた。
コクリ、息を呑む音がする。それは。
「………きみは」
殺人鬼が息を呑む、音だった。