終わる話 後
ぞわりと全身に鳥肌がたって、落ち着いていたはずの黒子の心はミキサーでかき混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃと巡った。巡って、乱れて、また巡って、そうして黒子の心のうちに湧き上がったのは、身体が震えるほどの狂喜だった。赤鬼―人の身体の血管と腹部を裂いて、その場を夥しいまでの血の量で埋め尽くして殺す殺人鬼。そんな世間に恐怖と興奮を齎すシリアルキラーに両親を音もなく殺され、声をかけられて。黒子は確かに、今生で一番の喜びを感じている。
殺人鬼の男の声は、甘やかな、女性であれ男性であれ聞き入りそうな声だ。一瞬その声に呑まれかけて、けれど黒子はぞわぞわと肌を這いずる回るような興奮にぺろりと唇を舐めた。息を呑んでから動かない殺人鬼からの視線は、しっかりと黒子へ向けられている。黒子から何のアクションもしていないのに、誰にも気づかれないほどの影の薄さを持つ黒子へと―殺人鬼の視線が、向けられている。それがどれほど尊いものなのか。黒子は涙さえ出そうだった。
いいや、実際に黒子は、ほろりと涙を落とした。いつも亡羊としていた眼差しは喜びをもって爛々と輝いてさえいるのに、その瞳から流れる涙が輝きを裏切っている。さわ、と、殺人鬼が一歩を踏み出した音が聞こえた。足音がほとんどない、衣擦れの音だけが聞こえる静かな動作だ。殺人鬼の纏っている乾いた血の匂いと、両親から今尚流れているであろう生臭い血の匂いと、殺人鬼のはちみつ石鹸のようなほの甘い匂いが混じって近づいてくる。その眼差しが黒子に注がれていて、その歩みは黒子へ向かっていて。
今まで黒子からなんらかの主張をしなければ悪気はなくとも無視をされていた。黒子は別段心が強いわけじゃない。………逆だ。盲目故に他者との関わりには敏感だ。だから無視をされる、ということは黒子を傷つけて、黒子は自分の心が罅割れて砕けてしまわないように殻に篭った。それでも人のぬくもりは欲しくて、殻は薄いまま過ごしていたけれど―磨り減るように心は削れて、両親にさえも気づいてもらえないという現実を直視した時、黒子の心は固く覆われた。自分の心を守るために他者との関わりを放棄した。そのときから、黒子の中で他人はどうでもいい存在だ。かすかに、自分に気づいてくれる人がいるかもしれない、という希望はあれど、そんな人間など今まで現れなかった。期待もしていなかった。
轢きそうになった黒子のことを、車を運転していた人間はすぐに忘れてしまった。まさに自分の手で奪いそうになった命を、だ。そんなこと普通はあり得ない。轢きそうになってしまった人間を、まるで空気のように、なんでもないことのように忘れてしまうなんて。異常なほどの認知のされなさ。黒子は己のそれを理解して、期待することも放棄した。自分に気づく人間などいないのだと心は冷たく凍りついた。
そんな黒子に、自発的に気づくこと。
それは黒子にとって、とんでもない奇跡で、夢想で、希望で、あり得るはずのない夢物語だった。
「…目が見えないの?」
空気が動く。そろりと伸ばされた殺人鬼の指先は、黒子の目元を撫でていった。
「それとも、怖いのかい」
頬を伝う涙をゆるくぬぐいながら殺人鬼は甘く問うた。黒子の頬を撫でる掌はシルクのように滑らかだ。きれいに切り揃えているのか、つめ先は丸く、指がすべるたびにくすぐったくなる。やはり殺人鬼の声は骨の髄に響いて染み渡るように美しい。黒子の声より少しだけ低めで、しっとりと落ち着いている声。すべての音にかすかに笑みのような軽やかな音が混じっていて、聞いていると心地よくなるような―この人の下につきたい、と、思わせるような、そんな、きっと、上に立つ者の声。
「……こわい?」
きょとん。黒子のどうあっても合わせられない視線が不思議そうに瞬く。君は目が見えないんだね、と囁かれて、殺人鬼のはちみつ石鹸のような香りがふわりと鼻をくすぐった。黒子は殺人鬼に目を覗き込まれているらしい。
このまま目を、その両親を殺した凶器で刺されるのだろうか。そんなことを考えて、それでも黒子は恐怖は抱かなかった。先ほどから感じているものは恐怖とは正反対のものだ。
「なぜ、怖いんですか?」
至極真面目に問われて、殺人鬼は一瞬息を止めた。ひゅ、と呼吸が乱れる音を聞いて黒子の首が傾げられる。黒子の中に両親の死など最早残っていなかった。見せ掛けだけでも繋がっていた細い糸は、殺人鬼が黒子の存在を見つけた瞬間に徹底的に跡形もなく安易に切られてしまった。
黒子を見つけられない、忘れてしまう両親と。黒子を見つけることができる、両親を殺した殺人鬼と。
黒子の中で天秤は後者へ傾いた。心の奥の奥に隠していた本心と、人のぬくもりを求める願いがじんわりと黒子の心を犯していく。
血の匂いが充満するリビングで、黒子はきっと、今まで生きてきた中で一番の笑顔を見せた。
「ボクのことを見つけてもらえたのに、怖いわけないじゃないですか」
とってもとっても、嬉しいんですよ。
そう言って黒子は微笑む。血まみれのリビングで、ひとつ壁の向こうでは血まみれな両親が倒れているこの状況で。血の香りを染み込むように纏う殺人鬼が目の前にいるのに―無邪気に笑う。呆気にとられた殺人鬼は、数秒の後にくつりと喉で笑った。可笑しくて堪らないとでも言うように笑い声は少しずつ大きくなって、さわさわと服が揺れる音がする。口元を手で覆ったらしい。黒子は音からそのことを知って、もう一度不思議そうに瞬きをした。
黒子は爽快な気分だった。人に覚えてもらって生きていくことを叶うはずもないと諦めて、惰性のように忘れられて生きていくことを受け入れて。世界はいつだって黒子の孤独なんて知らん振りで回っている。
それに感じるのは虚無だけで、むなしさばかりを抱えて生きた。そんながらんどうな黒子の心の中を、殺人鬼は一瞬で満たしてしまった。―人から話しかけられること。物心ついたときから、そんな経験は一度だってなかった。自分から話しかけるばかりで、話しかけても無視されることだって多々あった。…話しかけてもらえる、ということは、こんなにも嬉しいものなのだということを、黒子は初めて経験している。嬉しくて、泣いてしまう程に嬉しくて、微笑みは耐えない。
今なら別に、死んでも悔いはない。黒子は真剣にそう思っている。ずっと希っていたことが叶ったのだから、この願いを叶えてくれた殺人鬼に殺されることは恐怖ではなかった。忘れられて生きていく空しさと、ここで願いを叶えてくれた殺人鬼に20年ばかりの人生を閉じられることと。それらはふたつとも黒子にとって同じ重さで、どちらに転んでもどうでもいいことだ。満足感だけが胸のうちを満たして、黒子の心を嬉しさで乱している。
「ねぇ」
ふわりと高揚している黒子の心を、殺人鬼はその柔い声で惹きつけた。殺されるのだろうか、なんてことを思いながら黒子は顔を殺人鬼に向ける。
「なんですか?」
殺してくれてもいいんですよ、と、黒子はいっそふてぶてしいまでに堂々と立っていた。そんな黒子の様子に、殺人鬼はまた小さく笑って。滑らかな黒子の頬を撫でながら至近距離で囁いた。
「―君の名前を教えて」
「…あなたはこれから殺す人間に名乗らせるんですか?」
悪趣味ですね、と一言。けれど殺人鬼は、え、と呟いてから無防備に気を抜いた。殺す?確かめるように口の中で転がされた言葉は、聴覚が発達した黒子には容易く聞き取れた。不思議そうにしている殺人鬼に黒子は若干混乱した。世間を騒がせている赤鬼は、己を殺すのだろうと思っていたのだけれど。
「殺さないよ」
呟かれた言葉の意味がわからなかった。だって殺されない黒子は、警察に連れて行かれて、きっと赤鬼を追う唯一の手がかりになる。声と、匂い。それがわかれば、こんなにも美しい人だ。黒子は近づくだけでわかるだろう。証拠や目撃情報を一切残さない赤鬼の、それは最初のミスになる。
「殺さないんですか?」
「二度も言わせないでほしいな」
からかうような声だ。いよいよもって黒子は混乱した。殺されない黒子は、いったいなにになるというのだ。
「殺さないよ。君は僕のものになるんだ」
頬を両手で挟まれて顔を僅かにあげられる。どうやら殺人鬼は黒子よりいささか身長が高いらしい。吐息の温度さえわかりそうな距離に殺人鬼の顔があって、黒子はなんとなく落ち着かなくてぱちぱちと瞬きを繰り返した。殺人鬼の纏う空気が楽しそうで、なにをされるのだろうと少しだけ気になった。
「ボクをどうするんですか?」
殺されることを待っていた身だ。今更なにをされるというのだ。辱めでも受けるのだろうか?そう考えて、別にいいですけどね、と黒子はどうでもよさげに内心で呟いた。確かに嬉しさで気分は高揚しているが、根本的なところで、黒子の心は凍ったままだ。簡単になんて溶けてくれるものではなかった。
「どうしてほしい?」
「……できれば穏便に、痛みもなく殺してもらえればいいかなと。そうでないのなら、生かしておく理由を教えて欲しいですね。ボクはあなたのものになるんですか?」
「そうだよ。君は僕のものになる。僕の言うことは絶対だ」
「なぜ?」
両親と同じように殺されるとばかり。そう言って沈黙した黒子に、殺人鬼は相変わらず距離が近いまま、多大なる自信を持って笑った。
「気に入ったからね。僕の興味をひいたんだ―連れ去るぐらい、したいじゃないか」
「誘拐ですか」
「誘拐だよ」
くすくすと笑いながら殺人鬼は告げた。どうやらボクは、殺人鬼のしばらくの玩具になるらしい。なるほど、それは。
「…楽しそうですね」
こんな盲目の人間を、興味があるからというだけで連れ去ろうとしている殺人鬼も。そんな殺人鬼に、存在を見つけられたからと心を傾けかけている己も。両親が死んでいるという事実も。なにもかもがいっそおかしくなってくる。ただ、心は今までより軽かった。自分を見つけてくれる存在。声をかけてくれる存在。美しい殺人鬼。彼のそばにいる、ということは、声をかけてもらえるということ。それは蜂蜜のように甘く黒子の心を浸した。
世界はいつだって黒子の寂しさも孤独も悲しさも知らん振りで回っていたはずで、それはこれから先だってずっと変わらない事実でしかないと思っていたのに、それは今日この瞬間に壊された。
黒子のがらんどうの日々が、崩れていく音がする。
「ボクは―…黒子テツヤ、といいます。ただの全盲の一般人ですよ。ボクのなにが、あなたの興味をひいたのかはわかりませんが」
最早殺人鬼に命を握られている状況で黒子は微笑んだ。盲目の世話は大変ですよ、なんて軽口が口をすべる。
「そう、テツヤって言うんだね」
こつん、額と額が合わさった。どれだけ近づいても黒子には殺人鬼の顔は見えない。残念だなと、再び悔しさが胸を過ぎる。目が見えないことをこれほどまでに悔しく思ったことは初めてだった。美しい声に、甘い匂いに、音の少ない静かな動作。それだけ。音と匂いだけでこんなにも美しいのだから、きっと顔も、身体の造形も美しいのだろう。見たいなぁというどこか甘さを伴った悔しさで黒子の心はじわじわと満たされる。
そんなことを考えている、視線の合わない黒子の瞳を覗き込みながら。殺人鬼は砂糖菓子のような甘さで囁いた。
「僕は赤司征十郎。君の両親を殺した犯罪者で、連続殺人鬼で、赤鬼で、ジャンクヤードで、今から君を誘拐する―警察だよ」
赤司の声は骨の髄に響いて染み渡るように美しい。黒子の声より少しだけ低めで、しっとりと落ち着いている声。すべての音にかすかに笑みのような軽やかな音が混じっていて、聞いていると心地よくなるような―この人の下につきたい、と、思わせるような、そんな。
―――上に立つ者の声。