不実を孕む 前
「嘘を、つきましたね?」
「…なんのことかな」
白々しい、と黒子はじとりと赤司へ目を向けた。ふわりと香るはちみつのような匂いは、彼が愛用しているハンドソープのものらしい、ということを、黒子は彼に面倒を見られるようになってから知った。…そう、面倒を。黒子は最早慣れたように首を振った。あの血みどろの出会いから、黒子が赤司のモノになったことは明白だ。……どうやって?そう黒子が問いかけたのも無理はなかった。確かに警察だと言っていた。
(そうだろうとも)
思わず心のうちで乱暴につぶやく。警察だ。一時的な協力者という立場だろうとも、確かに赤司はある意味警察という名を語れる肩書きをもっていた。ふふふ、と、零れ落ちるような笑い声が響いて、はちみつ石鹸の香りが強くなる。赤司は不本意そうに眇められている黒子の瞳を覗き込んだらしい。赤司は黒子の瞳を覗き込むようにジッと見ることが好きなようで、よく鼻腔を赤司の香りがくすぐる。黒子の揺れる視線は生涯世界を見ることはない。この目が赤司を捕らえることはないのだと思うと、黒子はやっぱり残念だった。
*
―血塗れだ。黒子は目の前の殺人鬼をそう感じた。全身から血の香りがする…いいや、と緩く首を傾げた。おそらく壁一枚向こうで倒れ付しているであろう黒子の優しい両親だって血塗れで、こんな強い香りの中にいるのだから、きっと黒子だとて血塗れだ。
(血溜りの、家だ)
それは、家族の終わりを告げる香りだ。その血溜りに、今までの不満とすれ違いと我慢が詰まっていた。幼い黒子の純粋な絶望は、心の奥底でいつだって牙を剥いている。黒子を絶望へ追いやった両親に向かって、いつだって。両親が悪いわけではない。黒子が悪いわけではない。それがわかるからこそ、黒子は絶望を雁字搦めに閉じ込めていた。その牙が光る口を閉ざさせて、鋭い爪を鎖で縛り付けて、黒子は黒子なりに両親への愛を抱えていた。…その愛さえも、容易く壊れるモノだったけれど。
開放された絶望は、黒子のその柔い両親への愛を粉々にした。噛み千切って、切り刻んで、踏み躙って、嬲って、弄んで、振り回して、跡形さえなく粉々にした。そうしてその後に生まれた目の前の殺人鬼への幼い依存を、宝物のように抱いている。
頬に触れてくる殺人鬼の指先は、両親とは比べ物にならないくらい温かかった。黒子への気遣いが溢れているようだ―それが黒子自身に察せられるほど、異様に、殺人鬼は黒子に優しく触れる。
「警察の方でしたか」
頬にある殺人鬼の手を拙くなぞりながら、黒子は首を傾げた。大変なことですね。関心が一切払われていない声で、黒子は演技がかった仕草でなぞっていた殺人鬼の手首を掴んだ。
「まさか警察が、赤鬼だっただなんて、そんな―腐っている」
責めるように輝く瞳で、けれど声は楽しそうに歪んでいて。殺人鬼が笑いを堪えるような振動が、手首越しに黒子にも伝わってくる。肩を竦めて、黒子は殺人鬼の顔があるであろうあたりを見上げた。
「本来なら、君を責めるか、世を儚むかするところなんでしょうが、生憎ボクの関心の範囲外なんです。別に君が何者であれ、ボクを拾ったことだけが……それだけが、ボクにとっての、すべてだ」
黒子の命は、最早、殺人鬼の手のひらの内。それだけが黒子にとっての唯一の事実で真実だ。
「どうぞ、お好きに」
無表情ぶりが嘘のようにうっとりと笑って黒子は殺人鬼に向かって両手を広げた。脳も、腹部も、心臓も、首元も。おおよそ黒子の知り得る人体へ致命傷を負わせられる箇所を無防備に晒して、尚、笑った。
「………いけない子、」
吐息だけで笑うように、殺人鬼は囁いた。瞬きのはやさで首元にひんやりとした金属が当てられる。丸みを帯びたそれは刃物ではない気がする。鋭くはない冷たさは、ぬるりと血を滴らせていた。
(…あのひとたちの、血、ですか)
息をしていない父と母の血が混ざって、黒子の肌を滑り落ちていく。…気持ち悪い。生理的に受け付けないぬるさだった。嫌悪を強く感じて眉を寄せていると、強く香る血のにおいを覆うように、はちみつの香りがふわりと近づく。鼻先が触れ合って、黒子は落ち着かない気持ちで、視線が合うはずもないのにわけもなく視線を泳がせた。
「お前はもう少し自分の容姿が美しいという自覚をしたほうがいいよ」
より近くで響く殺人鬼の声は、背筋がゾクゾクと震えるほどに甘い。ひ、と出しかけた息を飲み込むような悲鳴が上がった。その黒子の悲鳴とは言えない甘さの伴う声に、目の前の殺人鬼が戸惑う気配がする。鳥肌のたった腕を摩りながら、黒子は恨めしげに唇を尖らせた。視覚が不能故に聴覚と嗅覚が常人より鋭い黒子にとって、殺人鬼の声とにおいは、いっそ媚薬だ。そんなものを耳元で聞かされて、ゾッとしないわけがない。
「………あなたの声は、怖気がするほど、イイ声ですよね」
溜息とともに零された文句に、殺人鬼は一拍の間をおいた後、うれしそうに微笑んだ(―らしい。空気と雰囲気でしか察せない黒子の、ただの推測だが)。
「僕の声が好きなの?」
好きとかそういう次元の問題じゃないのに、と、黒子は首を横に振った。けれど殺人鬼はそんな黒子にお構いなしに、笑みで緩んでいるであろう口元を黒子の耳元へ寄せた。その吐息が耳をくすぐるだけで黒子の指先がぴくりと動く。零れる笑い声で、ぞわぞわと黒子の肌は震えた。
「ボクは全盲の代わりに、耳と鼻がよく利くんですよ。そんなボクからしたら、君の声は…好すぎる、から」
「つまり好きなんだ?」
間髪入れずに返された声はまさに黒子の耳元で聞こえて、心臓は震えるよう鼓動を早くする。思わず黒子は耳を両手で塞いだ。これ以上殺人鬼の声を耳元で聞いたりなんかしたら、きっと立っていられなくなる。ごめんね、と、明らかに楽しそうな響きで、手のひら越しに殺人鬼の声が聞こえた。そんなこと欠片も思っていないくせに…と、黒子は殺人鬼を睨んだまま、耳を塞いでいた手で殺人鬼の口元を探って、ぺたりと両手で殺人鬼の言葉を封じた。手のひらが殺人鬼の体温を移してぬるくなる。
「もういいです。しゃべらないでください、ボクのために」
しかめっ面をしている黒子に、ふっと、殺人鬼の雰囲気が緩くなった。あやす様に頭が撫でられて、ボクは子供ですか!と黒子の小さな罵声が飛ぶ。―けれど、そのあたたかなスキンシップは黒子がずっと望んでいたものだ。跳ね返せるわけもなかった。
「子供だろう?テツヤは見たところ10代だし」
「ふざけんなこのやろうボクは今年で21です」
黒子の頭を撫でていた殺人鬼の手が止まる。うそだろう。本気で驚いたように呟かれた言葉に、黒子は思いっきり殺人鬼の手の甲を摘んだ。
「ボクはそんなに幼く見えるんですか」
「そうだね。まだ年齢的な意味で保護が必要だろうなとは思ったけれど」
黒子は自身が他人の目にどのようにうつるのかがわからない。子供と大人の見目の違いもわからない。…黒子には、人の形を見る機会がなかった故に、人がどのように成長するのかがわからない。けれど、一応世間では成人とされる年なのだから、子ども扱いされるのは心外だった。
「…そういうあなたは、おいくつで?」
刺々しい声音で黒子は殺人鬼に問いかけた。黒子を保護、と言ったあたり黒子より年上ではあるようだが、何歳なのかなんて黒子にはさっぱりわからない。
(そういえば、まだ名前しか知らない)
ぼんやりと頭の隅っこでそんなことを考える。あかしせいじゅうろう。少しだけ古めかしいその名前の響きは、美しい。名前までもきれいなのかと思うといっそ理不尽ささえ感じてしまう。
「僕かい?26だよ」
「………………ボクを誘拐するってなると、不本意ながらボクは未成年に見えて、あなたが三十路手前なので、犯罪臭しかしませんね」
「こんなにも世間を賑わす赤鬼に対して、いまさら犯罪もなにもあったものではないよ」
それもそうか、と、黒子は諦めたようにため息を吐いた。それで?この先の未来を促すように、黒子はちらりとひどく血なまぐさい部屋のあたりへ視線を流したあと、殺人鬼へ向き直った。じゃれあっている場合ではないのはお互いにわかっていることだ。
「このあと、どうやってボクを浚うんですか?」
それは、殺人鬼に「君は僕のものになるんだ」と言われた時から気になっていたことだ。明らかに「赤鬼」に陵辱された現場からその息子がいなくなっていたら―警察はきっと捜すだろう。殺人鬼のそばに黒子がいるというだけで、殺人鬼には相当なハイリスクのはずだ。どうやって。黒子が純粋な疑問で首を傾げていると、殺人鬼は任せろ、とでも言うように黒子の頬をひとなで。
「僕にできないことはないよ」
笑みを含んだ声は、清々しいまでに自信にあふれていた。
かこかこ、聞き覚えのある音が響く。それが携帯を操作する音だと気づいた黒子は、次いで聞こえてきた殺人鬼の言葉にぎょっと顔を上げた。
「もしもし、警察の方ですか?
―赤司です。赤鬼の事件現場を、発見しました」
*
あのあとは怒涛の勢いだった。黒子は思い出すだけで遠い目になる。警察がバタバタと忙しなく黒子の家へやってきて、赤司は「先生」と呼ばれていた。いつの間にか黒子と赤司は昔馴染みだということになっていて、赤司は黒子の家へ遊びにくるはずが、黒子家は息子以外が殺されていて、電話するに至る―ということに”された”。すべて赤司の嘘である。虚実である。それをさも事実かのように話した赤司に、黒子はあきれを過ぎて感嘆した。
そうして都合のよいことに、赤司は「昔馴染み」で「医者」である己が、黒子を保護しよう、と言い出して、それはいやにあっさり受け入れられた。
法医学者。監察医。
赤司はそう呼ばれる職種の人間であり、同時に警察から信頼の置かれる存在でもあった。黒子には専門的な知識がないからわからないが、つまり、死体を解剖する人間なんだろうなということはわかる。先生、という言葉の裏に、畏敬の念が込められていた。そうして赤司は、そんな声から隠すように小柄な黒子の体を抱きかかえて、警察へ見せないように黒子の保護を申し出た。
「あそこまで隠そうとしないでもいいでしょうに」
思わずこぼれた呟きは、赤司の自宅で、黒子のために夕食を作る赤司にきちんと拾われて。
「―だって僕が見つけた僕のテツヤを、ほかの人間なんかに見られたくないじゃない」
楽しそうに返された言葉には、黒子が思った以上の子供のような独占欲と傲慢さと、いたずらのような響きが混じっていた。