不実を孕む 後
崇拝に似ている、と、黒子は思う。
黒子は自覚していた。殺人鬼への依存と愛情が大きいことも、それが世間から見れば異常であることをしっかりと。けれどそれが何だというのだろう。異常であることと淘汰されることはイコールでは繋がらないハズなのに、異常ということは多くの人間から淘汰されている。
(だからこんな面倒なことに)
ニュースの音声を聞きながらため息を吐く。何時ぞやのアナウンサーが「赤鬼の被害の中の唯一の生き残り」などと―まるで黒子が悲劇の主人公であるとでもいうような、悲痛な声で原稿を読み上げている。何日同じニュースを繰り返しているのだ。…悲劇だなんてとんでもない、むしろ喜びに満ち満ちているのに!黒子はもう一度ため息を吐く。自分の知らないところで、自分が捏造されていくことが不快だった。
だって黒子は、幸せなのだ。
心の奥底に抱えていた絶望を浚われて暖かさに満たされた。黒子の存在を認める存在といつだって隣合わせで生きていける、それが、幸せ以外の何であるというのだろう。
これ以上幸せな気分を壊されたくないと黒子はテレビの電源を落とした。―そして聞こえてくるのは、家の外の喧騒だ。黒子は疲れたように目を閉じた。元々見えぬ視界ではあるが、瞼を下ろすことで些か闇が深くなる。ざわり、聞こえてくる声は、好奇と苛立ちに塗れたもの。
「………だんだん腹が立ってきました」
ボクが何をしたというのだ。ぎりぎりと唇を噛みしめれば、瞬間、はちみつの香りに包まれる。
「いけないよ、テツヤ」
そうして唇に触れてくる指先。白魚のような滑らかなその指だけで黒子の苛立ちは霧散した。噛み跡のついているであろう唇をひとなでして次いで頭も軽く撫でられる。黒子の柔い髪を梳いた手は、そのまま黒子の頬を包んだ。
「お前は僕のものだともっと自覚した方がいい。それが例え自身であっても、その身に傷をつけることを許してはいないよ」
ひやりとした声だと、黒子は背筋を震わせた。殺人鬼は基本的に黒子を阿呆のように甘やかす。殺人鬼であることが嘘であるように、盲目な黒子の世話を焼き、不自由がないかを気にかけ、気づけば殺人鬼の家は黒子の元の家より余程住みやすくなっていた。
―当たり前だ。だって黒子の両親は、黒子が壁の角に気をつけていることを知らない(角の鋭角はぶつかりやすい)。黒子が足元のほんの数センチの段差に気をつけていることを知らない(いつだってつまずきそうになる)。黒子が両親の喧嘩の大声に耳を傷めたことを知らない(だって彼らには当たり前の音量だった)。黒子が。
黒子が、己から意見を言ったことがないということに、気づいていない。
悪意も害意もなにもないはずなのに、そこにあるのは黒子を傷つけるものや環境ばかりだった。僕もなにも言わなかったですしね、と、今でなら黒子は己の非を認識しているが、それでもやはり両親に気づいてほしかったのだろうと、なんとなく寂しい気持ちにはなる。
反して殺人鬼は、欲求を何も言わない黒子から言葉巧みに様々なことを聞き出した。そうして甘やかされ、黒子は殺人鬼にどんどん依存していった。身体を満たす甘い蜜は、あまりにも甘美で手放せない。
だからこそ、殺人鬼の偶にだす冷たい声は、普段の甘露のような声と相まって黒子にはひどく恐ろしい。殺人鬼に呆れられることも、怒られることも、失望されることも。それはまるで世界に捨てられたかのような気持ちになる。今までどうやって無為に生きてきたのだろうと、以前の生活など最早できそうにもないのだ。それほどに依存してしまった。黒子を見つけてくれた美しい鬼に、生死を左右する権利を喜んで与えてしまうほどには。
(………捨てられるときは殺してもらおうなど、きっと正気の沙汰ではない)
震える声ですみません、と一言。うすら寒い己の考えにもそっと蓋をした。
*
崇拝だ、と、赤司は黒子を見つめながら心のうちだけでため息を吐いた。耳の良い黒子は、例え些細な音でも拾ってしまう。傷にはなっていないが薄らと赤くなっている黒子の唇に血を塗ったらそれはとても美しいのではないか。なんてことを考えながら、赤司は謝罪する黒子に雰囲気を柔らかくして応えた。それだけで強張っていた黒子の身体から力が抜ける。それは黒子の心に赤司が根付き、息吹き、中心を巣食っているという優越とともに、苦味をも赤司に与えた。
薄い氷のような色の髪と同色の瞳は、いつだってまっすぐに視線を彷徨わせている。あまり成長していない身体は華奢で、女性的ではないのに一瞬でもドキリとさせられる。おとなとこどもの間の身体は中性的で、はかない色の黒子は一種の芸術品のように美しかった。そのくせ中身はドロドロと憎悪と愛情を抱えたけだものだ。その矛盾を孕む狂気が一層美しいと、黒子と出会ったときに赤司は感動したほどだ。
己も中々世間から見れば異常だが、日常に埋没している異常性を持つ黒子は美しく、脆く、傍に置きたいと熱望するほどには赤司の興味も好奇も好意も浚っていった。
そんな黒子が己に依存しているという優越感と。
人として見られていないという、わがままにも似た苦さだ。
黒子にとって赤司は“殺人鬼”であり“赤司征十郎”ではないのだ。黒子は赤司がいなくなるのなら死ぬと言うほどには依存している。しているが、黒子にとって赤司は殺人鬼という名の偶像でしかない。例えば、と、赤司は何とはなしに黒子の髪を梳きながら胸の内で呟く。
(雨を降らせる神に祈ったとして。人にとって大切なことは“雨を降らせること”ができるか否かであって、それさえできるのなら、神の性格にも、嗜好にも、興味などない。供物のために好きなものを考えるかもしれない。けれどそれは、つまり、望みを叶えるのならば何でもいいということと同じじゃないか)
黒子にとって赤司はそれだ。類まれなる頭脳と見透かしの目を持つ赤司には、傍からみたら無表情な黒子の心の内などわかりやすいものだった。黒子の瞳はあまりにも素直に感情の波を写す。
依存されることは心地いい。黒子のためにと為したことで黒子が喜ぶのはうれしい。けれど、赤司征十郎を認識せず、殺人鬼のままにしておかれることはひどく腹立たしいときがある。
望んで黒子を依存させたのに、なぜ、と。
今日も赤司は、黒子の見えぬ暗闇で、答えの見えない考えを巡らせている。
それに加えて未だ収まらないマスコミの熱気に、赤司はそろそろストレスでそのあたりの人間を衝動的に殺してしまいそうだった。
(そういえば、テツヤといるからか忘れていたけれど。しばらくなにもしていないな)
黒子のための環境を整えることと、警察への情報の提供と。多忙の中で忘れていた飢餓感が途端に赤司を襲う。目を細めて舌なめずりをした。
(………空腹はいつだって最大の調味料、か)
赤司征十郎は、殺人に魅入られた男だ。殺人を美味とし、糧とし、食事とする。不定期に赤司を襲う強烈な飢餓感は、人の血肉を見ることで初めて収まるのだ。飢餓感が満たされる快感を赤司は気に入っている。道徳も、倫理も、世間も、それらとの軋轢など赤司には無意味だった。知らぬ誰かを殺したところで、それは赤司にとっては食事にしかなり得ないのだ。―人が家畜を殺して食うことと何の差がある、と、赤司は失笑しそうになる。
(…例えば知った誰かを殺したとして、この常とは異なりすぎる心は何を感じるのだろうか)
不意に浮かんだ下衆な考えを沈ませて、赤司はにこりと黒子に微笑んだ。
「ねぇテツヤ。少し…そうだね、2、3日ほど家を空けてもいいかい?」
*
用事があるんだ、と、そう言う申し訳なさそうな声音の中に飢えと楽しみを聞き出して、黒子は殺人鬼がその名の通りのことをしにいくことを悟った。人の声は感情の波を乗せすぎていると黒子はほんのりと笑ってしまう。
「どうぞお好きに。あなたの家にも慣れましたし、数日でしたら大丈夫だと思いますよ」
笑って答えると、殺人鬼も楽しそうに吐息を漏らした。ああ、と黒子はふと思った。
何故黒子は、人を殺しにいくという殺人鬼に恐怖を感じないのか。殺すことの罪悪感や忌避感など、最早感じるわけがない。すぐそばで両親を殺されてしまったときに、きっと黒子のひび割れたモノは散ってしまっている。そうではない。“殺人鬼が捕まってしまうことで殺人鬼と離されてしまう恐怖”を感じないのはなぜだろうか、と小さく首を傾げて、どうでもいいかと放棄した。
だってきっと、捕まった時に、殺人鬼は黒子のことを一緒に連れて行ってくれる。…そのことを、黒子は何も言われていないのに信じていて。
そうしてきっと、それは、真実に他ならないのだろう。