幸せな悪夢

 捨てられた、とは思わなかった。おおよその、大部分の、大勢の人間は、この状況に陥ったら―傷つき、涙し、絶望に膝をつくのだろうなということはわかるのだけれど。灰崎の心に、赤司の強制退部は微塵も影響を与えなかった。暇つぶしではあった。が、いつの間にかバスケット自体を楽しんでいたし、この先も続けていきたいと思う程度には好きになっていた。そんな折の強制退部である。普通なら落ち込むところだろうが、しかし、退部されられたからといってバスケットができなくなるわけではないのだ。ストバスもある。素行のよろしくない友人も、なぜか見目まんまな不良を慕うわけのわからない後輩も、クソ生意気だと自覚している灰崎にかまってくる先輩もいる。帝光中学校の体育館で、あるいは別の学校の体育館で。ユニフォームを着て、光を浴びなくなるだけのことだ。
(ン…まぁ、まこ兄と公式試合できないのは、アレだ…残念かもなァ…)
 ピアスをくるりと撫でながら不意に浮かんだのは、灰崎が唯一心を許しているひとつ年上の幼馴染の、馬鹿にしたような笑みだ。イケメンというより美形、美形というより美人な、大層美しい造形をもつ幼馴染は、その美しさを裏切るように下衆で外道で最低だった。ラフプレー大好き、人の努力を踏みにじるの大好き、人の不幸と苦痛は蜜もとろける至高の美味。まさしく外道である。そんな下衆な幼馴染が、まぁ、灰崎は大好きなわけで。
 昔から「まこ兄、まこ兄」とそれこそ金魚の糞のように後ろを着いていっていた。今でこそ金魚の糞は卒業したが、灰崎の落ち着く場所は帝光中学校の体育館でも、教室でも、自宅でもなく、いつまでたっても幼馴染の隣だ。逆も然り。幼馴染は嫌がる振りをしつつ、灰崎の隣にいつだっているので、自分等の相思相愛具合はオアイコなんじゃあないか、と灰崎は思う。
(退部のこと話したらどんな反応すンだろ)
 いつものように「バァカ」と言いながらこの灰色の髪をぐしゃぐしゃにしてくるのか、「お前アホだろ」と言いながら呆れたように笑うのか、それとも「やっと退部か?」なんて悪質な笑みを浮かべて小突いてくるのか。どれも想像に容易かった。幼馴染暦二桁年目は伊達ではない。
 そんなことを思えば、いささか面倒くさい距離の帰路も楽しいものだ。早く帰りてーな、と呟いた言葉が、灰崎が幼馴染離れできていないことのなによりの証明のようで、小さく苦笑した。

*

 想像していたのは、何れも悪童という名に相応しい笑みを浮かべる幼馴染の姿だ。
 間違っても、こんなドス黒いオーラを出しながら、猫被り用の笑みを振りまく、先ほどまで所属していた部活の主将さえ凌ぐような魔王サマ状態なんて想像していない。想像できるかバカヤロウ。
 それはそれは美しい笑みを浮かべて、幼馴染は灰崎の目の前に存在している。背中を擽る悪寒は間違いなく目の前のソレが原因であることは明白だ。
「…ま、まこ、にぃ?」
 そろり、幼馴染のシャツの裾を掴む。幼馴染暦も早十数年、おおよそお互いのことは理解しているハズだが―灰崎は現況を理解できなかった。
「なに、怒ってんの」
「ナニ、だって?」
 怒気を超えた殺意のようなものがじわりと空気を侵食していく。それに怯えるような灰崎ではないが、原因はわからずとも、今の発言が幼馴染の導火線に火をつけたことは理解した。珍しいと思う。幼馴染はよほどではない限りこれほど激昂なんてしないのだ。
「…こんのバカ祥吾」
 はき捨てるように呟いたあと、灰崎は顎を掴まれて引き寄せられた。灰崎のほうが身長が高いからだろう、腰が曲がって些か痛い。けれどそんな痛さなど、灰崎を射抜くように見つめる真黒の瞳の前では意味がなかった。どろどろとした黒は、底の見えない憎悪をちらつかせている。
 キスができそう、なんて考えていた灰崎は、唇を掠めた温もりに瞠目した。
 別にファーストキスではない。マセガキ、といわれるかもしれないが、灰崎はそれなりに快感を知っているし、元々恥らうような性格でもない。
 けれど―けれど。
 唯一の存在である幼馴染に、ずっと慕っている存在に、そんなことをされて平然としていられるほど、オトナなんかではなかった。灰崎だとてまだ中学生である。白い肌は赤く染まって、長い銀色の睫に縁取られた月色の瞳はきょときょとと泳いだ。
 幼馴染といえば、そんな灰崎の顎をいまだにしっかりと固定したまま、相変わらずの瞳で灰崎を見つめている。美しい顔は、今は黒く歪んでいた。
「テメェはよ、祥吾。家の都合だから仕方ねぇとは思ってたが、俺と別ン中学行って、俺以外のとこに場所作って、それはそれは充実した日々を送ってたんだろ?ッハ、まぁ、それはいい。まだ許せる。仕方ないっちゃ仕方ねェしな?けどなぁ、祥吾。忘れちゃダメだぜ?オマエは俺ので、俺以外に手ェ出されるなんてあっちゃいけねーの。ましてや相手の好き勝手にされるなんて論外だ。なのに、なに、退部とか。強制退部とか。ふざけてんの?」
「は、え、」
「俺のモンを勝手に所有した気になって、いい様に使って、最後はポイってか?……許さねェよ?」
 ニィ、と笑った幼馴染と密接した身体に直接怒りが伝わるようだ。ぼんやりと幼馴染を見つめていた灰崎に、幼馴染は眉を寄せてギラリと灰崎をにらんだ。
 その目元が赤いのは、きっと灰崎の見間違いではない。
「この、ニブチン、が!」
「ッテエエェェ!!!!」
 ガツンと頭突きをされて、灰崎は思わず幼馴染を睨んだ。件の幼馴染と言えば「鈍感」「直接いわねーとダメなのか」「アホ祥吾」などと文句を垂れ流している。己はなんでそこまで言われているのだ、と灰崎はじとりとした視線で、幼馴染が俯いたせいで見えるつむじを睨む。ぶつぶつと口を動かしていた幼馴染は、その視線を感じてか、大きくため息を吐くと灰崎を見上げた。
 美しい造形を裏切って下衆で外道で最低な、灰崎が唯一心の底から大好きだと言える幼馴染の花宮真は。
 頬を赤く染めて、力の限りに叫んだ。

「お前のことが!好きだっつってんの!!!
いい加減女漁ってないで俺のモノになりやがれこのバカ祥吾!!」