まばたき一つで火は消える
どうぞ。どうか。良い戦いを。…神様。
あまぎはそっと瞼を下ろす。戦いの前のその刹那の間にだけ、あまぎはただ一人の人間としての祈りを自分に許している。愛し、守るべき国のためではなく、愛する人のための祈りを。神殺しの大罪を犯すくせに、無事であるように、と、神に祈る滑稽さを、その愚かさを、あまぎは心底にわかりながら祈った。必死の呪いだ。祈る先に禍つ神などいない。祈る瞼の裏に映るワノクニと重なるように、仏頂面のヤマトがいて。―祈る先にあるのは、いつだって。あまぎが信じる道だけだ。
瞼を上げる。そうすればもう、あまぎは国のための器にしかなり得ない。それが喜ばしいと同時に痛みをもたらす。…痛みを奈落に沈めて、あまぎは両隣に立つ存在にちらと意識だけを向けた。殺気立ち、闘気をゆらめくように身体に纏わせている。
目の前にいる美しい女神。周囲に火玉をゆらりと浮かせ、只管に微笑む、あまぎたちが倒すべきもの。
…ここに至るまでに幾つもの命を喪った。幾つもの痛みを刻まれた。涙さえ出せないまま、歩みだけを進めた。心さえ擦り切れそうで、それでも倒さなければいけないと誓った、ワノクニの神。
無言のままに弓を構える。矢、そのものを炎にするように力を込めて。炎の矢、そのものを神への供物にするように。パチパチと火花が鏃から弾け、あまぎの眼差しは神の心の臓だけを見つめる。
(―例え、この身、滅びようと。例え、誰かが。…誰かが、損なわれようと)
痛みを。鎖で縛って、鍵をかけて、奈落に沈めて。
そうしてあまぎは、始まりの矢を放った。
*
―神様。
神様。神様。神様。神様。
この手から放った矢は、確かに神を貫いたのに。神殺しは叶えられずとも、ワノクニと神の繋がりを、この炎の矢は、確かに。
―なのに何故。神様。あまぎの信じる道ではない、正真正銘、森羅万象を司る、神よ。これも試練とでもいうのだろうか。男として生まれながら女として生きることを強いられ、国のために死んでいくことを強いられ、愛する国のためならばと忙殺される日々の中、恋しい人の隣で戦えるという、微かに得られた細やかな幸せさえも奪われた。
咽喉の奥が引き攣れて、吐息さえ上手く零れない。目の前で倒れる男の死体に近付くこともできない。先の戦いで心身ともに疲労しきったあまぎに、その光景は、あまりにも―惨い。
―神様。信じてもいない、森羅万象の神よ。数多の仲間を喪った。その度に誰かが損なわれる覚悟を固めた。…男が損なわれる覚悟を、固めた。けれど夢も見ていた。犠牲もなくあまてらすに勝利できるという、甘ったるい夢を。
(―…損なわれてしまった)
激情に叫びたかった。思いのままに泣いてしまいたかった。朝日が照らす戦場の中、いっそ美しく日を浴びる死体を見つめながら、弓が音を出すほど手のひらに力を込める。
あまぎは。溢れかえる激情を、ほんの一間で飲み込んだ。
(ここで泣き叫び、跪き、悲しみに飲まれることは許されない。それは命を落とした皆への冒涜と裏切り…命を賭して戦い、勝利したのに、立ち止まる暇など)
勝利を手に、この先未だ混沌としている国を治めていかなければならない。そのために戦ったのだ。そのために命を懸けたのだ。そのために喪われた命があるのだ。
傷だらけの指先で、倒れ伏した男の頬を撫でる。神を射抜くあまぎの炎の矢。それを見て勝利を知ったのだろう男の顔は、血に塗れて尚穏やかだった。生きている間には終ぞ見ることのできなかった表情に、あまぎの瞼が震える。奈落の底から泣き声が聞こえた。黒々としたあまぎの瞳の奥に、激情に押された火花が散る。
けれどその火花は、瞬きひとつの間で散り終わった。あとに残るのは、悲しみと覚悟に彩られた燻るような火種だけだ。
―痛みを。鎖で縛って、鍵をかけて、奈落に沈めて。
瞼を下ろした。その刹那の間にだけ、あまぎはただ一人の人間としての祈りを自分に許している。愛し、守るべき国のためではなく、愛する人のための祈りを。
(…どうぞ。どうか。良い旅路を)
*
最早祈りの先には、なにもなかった。