溺死する人魚と恋心心中

恋心心中

 湖から人を食べた怪異の匂いがする。宿に着くなり瑠璃を煌めかせた山姥切に長谷部はため息を吐いた。休暇のはずだったのになんで行く先に怪異がいるんだ。眉間にしわを寄せる長谷部に、他の客の連れてきていた犬が鼻先を押し付けてきた。この場所は獣には辛かろうと苦笑して犬の頭を撫でれば、長谷部のそばが安息の地とばかりに甘えてくる。獣はにおいに敏感だ。腐った水のにおいはさぞ臭かろう。湖から出てこないとはいえ、いきものではない気配はさぞ恐ろしいだろう。長谷部は刀、それも怪異を斬ることのできる個体だ。その周囲は清廉な空気に満ちている。よしよし、と更に撫でれば、犬は嬉しげに尻尾を振った。
 その様をカメラで撮っていた山姥切に、宿の看板猫の親子がにゃあんと擦り寄る。宿の夫婦にたいそう可愛がられているその猫たちとてこの場から離れたいだろうに、夫婦を残して行くことができなくて、夫婦を湖に近付けないように立ち回りながら生きている。そのちいさな命が愛おしくて、山姥切は猫の親子をまとめて抱き上げて頬ずりをした。人間を愛するかわいい子。優しく善良な夫婦。あたたかな宿にまとわりつく不浄は観光名所とされる湖から流れてきている。斬らなければならないと山姥切が長谷部へ視線をやれば、藤の瞳は仕方がないなと柔らかに緩んだ。それに笑い返して猫を地面におろす。あんな不快なにおいを撒き散らすものなんてすぐに斬ってしまおう。ふたふりを人間だと勘違いして、極上の餌がきたと無邪気に手招くならば、その懐に入り込んで全てを切り裂いてやろう。瑠璃の瞳を殺意に浸して山姥切は宿から一歩、外に出る。
 腐った水のにおい。視界の隅にちらつく女の影。瞬きの間に消える水草の幻影。いざなうように揺れる青白い手。人間であるなら誘われるままに湖に向かうだろう迷い道があちこちに作られているが、付喪神たる山姥切には無意味だ。それらを無視して長谷部を振り返る。しゃがんで犬を撫でまくっていたので激写してから話しかけた。

「長谷部くん、ご夫婦に話を聞きに行こう。これは長い年月をかけて溜め込まれた呪いだ。この土地の伝統か、風習か、まじないか」
「湖に誘うことはできても、湖から出てくることはできなさそうだしな。土着だろう」
「大人しくつまみ食い程度にしておけばいいものを、どいつもこいつも命ごと奪っていくから俺の怪異退治が終わらないんじゃない?」
「お前のそれは怪異が舞い込んでくるんじゃなくて、お前が怪異を探して殴り込みに行ってるから終わらないんだ。今回の旅行も休ませるのが目的だったんだぞ」
「過去形」
「人を餌にする怪異を前にお前が止まるとは思っていない」

 おやまあ、と瞳を瞬かせた山姥切は、これだから君のことが好きなんだよねとくふんと笑う。山姥切が出来るのであれば、結局は止めないのだ、この刀は。山姥切が止まらないことを知っていて、休めとは言うが止まれとは言わない。いつも隣を歩いて、たまに手を差し出してくれる。腐れ縁に似ているけれど、腐れ縁より素直でかわいい。腐れ縁もかわいいけれど。脳内で腐れ縁がかわいくねえ!にゃ!と睨んできたので、山姥切はうんうんかわいいと笑っておいた。
 一歩。踏み出していた足を宿の敷地内へ戻す。手招く青白い手が残念そうに消えていったのを見て、殺意を滴らせた瑠璃が弧を描く。

(待っていて。斬って、刻んで、踏み潰してあげるから)

 人の子を餌にすることを、俺は決して許さないよ。恋の叶う湖。そう呼ばれる怪異の住処をじっと見つめてから、山姥切は踵を返した。


宿の夫婦:
 あら、こんにちは。あの湖ですか?ええ、ええ、ここの売りですし、近いですから。行ってみたい気持ちはあるんですが、行こうとするたびにうちのななちゃん…ああ、かわいいでしょう?ななかまどって名前なんです。はい、初夏に産まれて。ななちゃんがすごい声で鳴いて甘えてくるものだから、だんだん気味が悪くなってきて…ななちゃんがこんなに嫌がっているんだから、行かない方がいいのかもしれないと思ってしまって。今までなにか事件や事故が起きたと聞いたことはないんですけど、私たちにとってななちゃんは家族ですから。家族が嫌がるところにわざわざ行かなくてもいいかなって。
 …あら?私どうして、お客様にこんな、不安になるようなこと………?え?そうなんですか?言われてみればたしかに、お客様がた、なんだかとても話しやすくて…そう言っていただけると助かります。ありがとうございます。
 湖のおまじないについて?そうですね、それが有名なんですよね。ええと…湖に行ったことがないので伝聞なんですけど…たしか、ひとつの石に名前を書いて湖に投げ入れたら恋人同士、夫婦同士なら永遠の愛を得る、片思いならば恋が成就する、そういう話だったと思います。
 私たちはもう終の住処も決めておりますし、今更永遠はいらないですねえ、ねえ、あなた。…あら、ななちゃん。なあに?お膝に乗りたいの?え?寂しいから仲間に入れて欲しがってる…?ふふふ、すっかりななちゃんと仲良しですね、外からおかえりになったら遊んであげてくださいな。
 はい、行ってらっしゃいませ。

犬の飼い主:
 あっ、こんにちは!さっきは瑪瑙と遊んでくれてありがとうございます!こいつすごく懐いてて俺もびっくりしました。俺ですか?いえ、俺は友人の付き添いでここに来ただけなので…瑪瑙と遊べたらいいなって思って!湖?ああ、なんか恋のなんたらのとこ。友人はそこに行きたいって朝から一人で出かけたんですけどね。
 俺も誘われたんですけど、瑪瑙がすっごい甘えてあそぼーってしてくるから、宿の人にこの辺の公園教えてもらったんです。今から行ってきます。場所ですか?この宿を挟んで湖の反対側に、ペット可のおっきい公園あるんですって。
 お、なんだなんだ!そんなに遊びたいのかこいつめ〜!かわいいやつだな〜!よしよし。あ、じゃあ俺いってきますね!はあい、いってきます!お兄さん達もいってらっしゃい!

湖付近を散歩していた少女:
 ?こんにちは!お兄さんたちお客さん?お水のところ?すごくきれいだよ!みんなきれいな石をね、ぽーんって投げるの。きらきらした石だから、お水のなかでもきらきらしてて、お昼だとお水みんながきらきらしててすごいんだよ!
 うん、あそこで石屋さんしてる!お兄さんたちもきれいな石、ぽーんって投げてね!

土産屋の売り子:
 いらっしゃいませ!呼愛石をお求めですか?ああ、はい、よびおいし、です。これに恋のお相手と自分の名前、恋人の名前、ご夫婦の名前を書いていただいて、桟橋から湖の真ん中、一番深いところ目掛けて投げ入れれば恋が叶う、永遠の愛が手に入る、というおまじないですね。両思いになれた、というお声もいただいていますが、必ずしも叶うわけではないことをご了承ください。
 始まりですか?もともとこの湖には人魚が住んでいる、という伝説がありまして。よくあるお話ですよ?美しい人魚と恋をした人間の男が人魚と一緒に水底に沈んでいき、二度と村に戻ってこなかった。自殺か?と村人たちは湖を探し回ったけどなにも出てこなかったことから、男は人魚の伴侶となって水の中でも生きれるようになったと言われています。今も湖には人魚の夫婦が住んでいて、好きな人と一緒に生きてる幸せを謳歌しているから、水底に沈んだ呼愛石も幸せをおすそ分けしてもらってる、ってことらしいです。メルヘンですよねえ。
 石はよろしいですか?お饅頭は、はい、餡に名産のみかんをいれています。こちらですね、お買い上げありがとうございます!お気をつけて!

ななかまど:
 にゃあん。

縺ェ縺ェ縺九∪縺ゥ:
 めずらしい。お刀様がこんなところにくるなんて。こんな腐った土地にさあ。腐ってるよ。わかるだろうに。…ほうら、やっぱりわかってるじゃないか!そうそう、あの汚泥。恋が叶うだなんだ、あれのせい。
 人魚伝説ゥ?そりゃああれだ、心中伝説だろう。あの汚泥、もとは心中した男女の念だよ。そこにさらに念を込めた石を餌にやったもんだから、人間を食えばチカラになるって起きた汚泥が手当たり次第手を出して、何人か食ってるね。私はこの場所から離れられないし、守りたいのはここの人間だ。他に手を伸ばして守りたいものを取り零すなんてごめんだからね。どうにもできないさ。
 ………斬る?そりゃ助かる。今代は湖に近づかないけど、やっぱり近づいてしまう子はいるからね。あれがいなくなるのが一番いい。
 それに、哀れだろう。あの湖、今は腐りきってるが、昔は美しいところだったんだ。そりゃあもう、澄んだ水面に太陽が写って、きらきらしていたよ。


溺死する人魚

 水の気配が肌をなぞる。清涼とは言い難い、腐った汚泥の溜まったそれ。水草は枯れ果て水底に重なり、腐乱した魚が骨を剥き出しにして泳いでいた。疾うに死んでいるとも気付かずに。疾うに魚ではなくなっていることに気付かずに。常人には美しい湖に見えているのだろうその場所は、あらゆるものの死体が積み重なった墓地だった。
 長谷部が腐臭のひどさに目を細める。人間は誰も気づかない。この腐ったにおいにも、腐った魚にも、濁った水にも。すべてすべて、水底の人魚が隠してしまっている。人魚と呼ぶのも烏滸がましい、人間の恋心を貪る化け物だが。

「心中が多発していたことを隠そうとうわさを流したら、逆に恋が成就する湖、と呼ばれるようになるなんて皮肉だよね。でもそれがお前に力を与えた。名前を刻んで、願いを込めて投げ入れられた石は、心中した二人分の擬似死体だ。投げ入れられた石の分だけ水底に恋心と死体が増えて、重なって、積み上がって、お前の餌になってしまった。お前の餌になるために人の子は恋をしているわけではないよ。肥え太った腹を掻っ捌いてあげよう。その中にある恋心を返してもらおうかな」

 ぎらぎらと。煌々と。戦装束へ装いを変えながら瑠璃と刃をきらめかせる山姥切の刀の先、湖の真ん中に少女が立っていた。夕焼けの中、赤い逆光で見えないはずの表情が歪んで、白金の輝きから逃げようととぷんと湖に沈む。己を殺しにきた存在を招いてしまったことに気付いたらしいが、今更だ。この土地に足を踏み入れたその時に、山姥切は狙いを定めていた。
 抜刀したまま湖に足を踏み入れる。まとわりついてくる情念を踏み潰した。噛み付いてくる腐った魚を蹴り飛ばした。溺れさせよう足を掴んでくる男女の手を串刺しにした。
 少女は女に姿を変えて、男に姿を変えて、きっと、今まで食べてきた恋心を模りぐにゃぐにゃに変化しながら水底へ泳いでいく。腰あたりまで湖に入った山姥切は、水越しにそれを見ながらうっそりと笑った。

「刀は水の中に入れないとでも思っていたのなら、お生憎様。俺はね、お前たちを斬るためなら、なんだってできるんだよ」

 湖は、怪異だ。
 水ではない。水ではなく怪異だから、錆もしないし、斬ることもできる。
 山姥切長義には、それができる。

「ちゃんと殺してあげる」

 笑いながらとぷん、と怪異に沈む。水中でたゆたうマント。こぽりと吐き出される小さな泡が水面に昇っていって、星色の髪を揺らす。水の青に同化しない美しい瑠璃が殺意を孕んで弧を描いた。
 人魚のかたちをした怪異の、その美しい女の顔に手を伸ばす。泥のように絡みついてくる情念の塊を切り飛ばして、水そのものを切り飛ばして、人魚の逃げる先を切り飛ばして。刀を振るうごとに怪異になってしまった湖そのものが千切れていく。人魚の生きる場所がなくなっていき、息苦しさに人魚はごぽりと大きな泡を吐き出した。
 刀を振り上げた山姥切は、宣言通り、その腹を捌いた。腹から出てきた食べられてしまったたくさんの恋心を砕くと、力を失って水の中で息ができなくなった人魚の残骸の頭を鷲掴む。
 そうしてその首に、刃を当てた。

 見てみて!斬ったよ!と生首をひっ摑んだまま湖から出てくる山姥切に、長谷部は盛大なため息を吐く。とりあえず濡れ鼠をどうにかしろとタオルを投げつけた。

「力技すぎるぞ。錆はせずとも身体は冷えるだろうに。準備のいい俺に感謝するんだな」

 生首を地面に投げ捨てていた山姥切は、長谷部が手に持っているホットココアの缶を見て、俺の相棒気遣いのプロ〜!好き!と声を上げて笑いながら抱きついた。冷たいと文句を言われながらわしゃわしゃとタオルで髪を拭かれて、そのあたたかさに目を細める。

「これで煩わされずに旅行できるね」
「楽しみだな」
「うん」

 微笑む長谷部に笑い返した山姥切は、地面に転がる人魚の生首をぐしゃりと踏み潰した。黒々とした血が一瞬跳ねて、けれど解けるように肉塊ごと消えていく。瞬間、鳴り響いた電子音。携帯端末を取り出した山姥切は、電話口からの「仕事したでしょ山姥切さま!!!!!!」という政府職員の叫びに苦笑した。

「よくわかったね?」
『端末が異常な穢れを察知してずっと警報なってたんですよ!!電話しても繋がらないし!!山姥切さま、長谷部さまと旅行のはずなのに!!!』
「怪異に取り込まれてた…というか、怪異の腹の中に飛び込んでたから繋がらなかったのかな」
『なんですかその状況…というかやっぱり怪異切ってたんですね!!?そうだと思いました!!もう、帰ったら報告してくださいね』
「えっ休みだったのに?」
『山姥切さまが出張るレベルの怪異の報告がなぜいらないと思われたので????長谷部さま!長谷部さまにも伝えておいてくださいね!!帰ってきたら!!ご報告お願いします!!』
「俺もか」
『あっ聞こえましたよめんどくさがってますね??拒否権はありませんから。帰ってきたら山姥切国広さまのおんぶおばけ化と報告書が待ってますから』

 仕方ないなと失笑して山姥切は通話を切った。
 さて。帰ったらきっと、騒がしくて愛おしい写しと仲間が待っている。それが嬉しくて、山姥切と長谷部は顔を見合わせて笑った。