深海室
まるで深海にいるようだと思った。
深い深い海の底、紺を通り越して真っ黒な水の中。息も儘ならずに、身体を上手に動かすことができないからもがくこともできないで、みっともなくじっとしていることしかできない。腕を伸ばせば指先から深海の黒にたべられていく。助けを求める声は、口をあけた瞬間に海水にそれを遮られて。
助けを求めるだなんて、できるなんて思ってはいない。
けれどどうしようもなくさびしくて、くるしくて、たまらないから。
―助けを求めれるだなんて、思ってはいないし、許されることではないけれど。それでも。
伸ばす腕を、声を出そうとするのどを、止めることは、できない。
*
はぁ、と大きく息を吐く。カーテンの隙間から朝日がのぞき、鳥が謡う朝に、ランカはただただ沈痛な面持ちで俯くことしかしなかった。ベッド脇のテーブルに手を伸ばして手鏡を覗き込む。
ひどいかお、とランカはひそりとわらった。顔は青ざめていて目元が涙でぐちゃぐちゃだ。髪だってぼさぼさで、とても人に見せられる姿ではない。
幾度となく迎えた朝だ。バジュラ―否、グレイス・オコナーとの戦いが終わってから、いつだって朝は憂鬱で痛くてくらいものだった。1日が始まるのが辛かった。…辛い人はたくさんいる。戦争が終われば、残るのは喪失の悲しみと戦いの爪あとだけだ。残されたもの。それが、いつだってランカの朝を憂鬱にする。
大切な人を失った人々の悲しみに、いつもランカは押しつぶされそうだった。そのことを思うと、いつだってランカは己の咽喉をかきむしりたくなる衝動に襲われる。
(この声が。この咽喉が。この私っていう存在が!)
戦争の原因なのだ、と。ランカはそう思って止まない。無知は罪だなんてよくいったものだと、ランカらしかぬ薄暗い表情で俯いた。
こぼれる、吐息。
ランカはそれを、この気持ちを。誰にも悟られないようにするのが。それが自分にとっての罰なのだと思っている。
*
その苦しみも悲しみも痛みも受ける覚悟がランカにはあった。
けれども人は弱い生き物だ。ふとした瞬間、ランカはどうしようもなく震える身体を抱きしめるしかなかった。ランカは己の弱さを自覚していた。誰かに手を伸ばしそうになって、その腕を歯を食いしばってひっこめる。
(これは、誰にも言っちゃだめ。言ったら、きっとみんな、心配して、それで、)
ランカのせいではないのだといってくれるのだろう。一番ランカが求めていて、けれども求めてはいけないと律しているその言葉を、本心からつむぎだしてくれるだろう。
そんな甘えは許されない。ランカはどこまでも自身を戒めた。
傍からみれば痛々しいまでに憔悴したその瞳は、けれど―悲しい決意で輝いて、いる。
(それに、いくら苦しくったって)
「ランカ、起きているか?」
瞬間、凛と響いたその声に、ランカは幸福に微笑んだ。その笑みは、恐ろしいほどにやさしく満ち足りていた。
「さっき起きたよ、ブレラさん」
ランカが返事をしてそっと開かれた先には―ランカの愛しい兄が立っていた。ベッドの上の顔色の悪いランカを見てほんのすこし顔をしかめて近づく。ランカの頬をなでた指先の温度は、心地よい。
ひとつためいき。ブレラは「ちゃんと寝ているのか?」と心配気にランカの頭をなでて目線をあわせた。
(―そう、どんなに苦しくったって…)
「朝食ができている。一緒に食べよう」
そういうとブレラは微笑む。その笑みにほう、と見惚れて、ランカは甘く笑い返した。
(深海にいたって、私には)
(この人が、いるならば―だいじょうぶ)