かみかみ

 口元を抑えている手が震える。声を漏らしたらそれで終わりだということをわかっていた。顔を赤くして睨んでくるゴッドフリーを視界の端で捉えながら、ヴァルトルスは顔を横に向けたまま咽喉を絞るように声を抑えた。…抑えたはずなのだ。
「…………ふ、はっ」
 無理だった。抑えきれない笑い声がほろりと零れて、こぼれ出した笑いは止まらない。肩さえ震わせてくつくつと笑うヴァルトルスに、ゴッドフリーは何度か口をつぐんだあと、縋るような声を出した。
「…………ヴァルトルス……」
「っ、なんだ、今度は、噛まなかったのか」
「笑いながら言わないでくれ、頼む」
 ゴッドフリーの頬は赤く染まり、若干涙目になっているし、居た堪れないとばかりに視線をうろうろと彷徨わせている。誰が見ても恥ずかしがっているのは一目瞭然だった。あまりの情けない顔にヴァルトルスの頬がますます緩んだ。普段は穏やかな友の、焦ったような恥じ入るような様など珍しいにもほどがある。白い頬が一気に赤くなる様も、慌てたように首を振る様も、なにもかもがヴァルトルスの滅多に入らない笑いのスイッチを入れてしまった。
「そ、そんなに笑わないでくれってば!ますますはずかしくなるだろ!」
 ああもう、と髪の毛をくしゃりとかきあげたゴッドフリーに、ヴァルトルスは相変わらず肩を震わせながら視線だけで謝った。正しくその視線の意味を理解したゴッドフリーは、しかし、謝りつつも結局笑いやまないヴァルトルスを、触れたらその頬を引っ張ってやったのに、と、半眼で睨んだ。
 そも、はじまりは何のことはない。至って単純な事件だった。友となって長い間遭遇したことのないものだった。
 ゴッドフリーが、ヴァルトルスの名前を、盛大に噛んだ。
 ヴァルトリュスだかヴァルトウスだか、兎にも角にもヴァルトルスの名を正しく呼べなかったゴッドフリーは、ピタリと静止したあとに一気に顔を赤くした。そこでゴッドフリーも軽く流せばまだよかったのだが過剰に反応してしまい、更にはじわじわと情けない顔になるゴッドフリーがあまりにも情けなかったので、ヴァルトルスはうっかり笑いそうになって。ゴッドフリーに睨まれたものの、我慢できずに笑い出してしまって今に至る。
「僕はてっきり怒られるかとおもって焦ったのに」
「知らんヤツならまだしも、貴様に言い間違えられただけで怒りはせんわ。怒るだのなんだのの前に、あまりの情けない顔に笑いがきた」
「ヴァルトルス黙って」
「噛まないのか」
「ヴァルトルス!!」
 睨んだ先で悪戯っぽくからかうように笑うヴァルトルスを見て、眦を釣り上げていたゴッドフリーはほんの少しだけ目を見開く。次いで、心の内だけで諦めたように―柔らかに、しかたないなあと呟いた。
(普段笑わないお前がそんなに楽しそうにしていて、僕が怒れるわけないだろう)
 ため息を吐きながら赤くなった頬を冷ますように手で扇ぐ。今度からは絶対に噛まない。そう誓うゴッドフリーは、ヴァルトルスもなんか噛みますように、と、ついでのように願った。
「…………貴様、今、私も噛めばいいと思っただろう」
「えっ!?おもってないよ!?」
「阿呆、顔に出てる」
「…いや、それヴァルトルスの気のせい。気のせいだかりゃ………、………………、………」
「…………っ、……っく」
「………………………………ヴァルトルス」
「ふ、」
「う゛ぁるとりゅ、…………、………」
「…!…っ!」
 笑いを耐えようとしている友を見て、ゴッドフリーはヴァルトルスに触れないことを心底、心底恨んだ。ゴッドフリーは確かにヴァルトルスの笑顔に弱いが、それとこれとは話が別だと。滅多にないほど笑いかけている友に盛大にデコピンをかましてやりたい気分になった。