薔薇の群青
真紅の薔薇に炎を咲かせる。新緑の茨さえ炎に染めて、ヴェルベットはヒールを鳴らして杖を掲げた。幾度も繰り返したその行動は、最早無意識のレベルに至っている。―振り下ろせば、それは為される。目の前で燃え逝く悪食王の魂のひとつは、最後まで猫のような笑みを湛えたまま消えていった。忌々しい、と、ヴェルベットは眉を顰め、満開の薔薇を蕾に戻して踵を返す。
(結局、今回も悪食王の本体ではなかった。…何体目だったかしら)
長すぎる追いかけっこの最中、途中から数えることを止めてしまった。途方もない時間の中でその忌々しい青い輝きを屠る度に、教国とともに墜ちていった主を思い出す。青く美しい、海と空の色の人。声は。―声は?
…ヴェルベットは歩みを止めて愕然とした。幾度と聞いた、己の名を呼ぶ、鈴の鳴るようだと思った声を。だらしない姿には似合わない美しい声を。何千年も共にいた主の声を。
(聞き飽きた、とまで思っていたのに、なぜ、おもいだせない、の)
悪食王と対峙したときには感じたこともない恐怖がヴェルベットの咽喉を震わせた。青い邪悪な輝き。それを屠る度に浮かべた、清廉な青い主は、さぁ、どんな声を、どんな服を、どんな顔をしていた?
(…………あの人はだらしのない、人で。けれど、そう、海と空の色の、美しい髪と目の)
―それ以外のことを、思い出せない。ぐうたらに過ごしていたことと、美しい色と、最期の姿と。長い間傍にいて世話をしたはずなのに、習慣も、癖も、微笑みも、その記憶が真白に塗りつぶされたようだった。青い主が真白に殺されていくようだった。
孤独の中、いつからか縋るように思い出していた青が、気づかないうちに死んでいる。
初めは契約で仕方なくつかえていたはずなのに百年も経つと情が湧いていて。嫌いになるどころか、仕方のない、と、口癖のように言い訳をして、日常的な世話に手を出してしまうほどに当たり前に隣に居た人。隣にいることが当たり前になっていた、ヴェルベットが最も美しいと思った人。彼女が国と共に墜ちてから、その青を思い出して、自身とその青のために長すぎる時を駆け抜けてきたのに。
虫食いだらけの青い主が、顔のない顔で微笑んで、声ではない音でヴェルベットに囁いた。
―ヴェルベット。
―赤薔薇の貴女。私を憎みなさい。憎み、嫌悪し、そしてそれを糧に生きなさい。貴女に全てを託す私を情けないと。敗者と。愚者と。罵りなさい。悪食王を斃すまで死ねない、一人きりのヴェルベット。
―ごめんなさい、私は先に、逝くわ。
「―――ッ」
引き攣れたような悲鳴がヴェルベットの咽喉から迸る。囁きは主の最期の言葉だ。これだけは一片たりとも忘れることのできない、ヴェルベットに痛みをもたらす刃だ。怖気のするほどの優しい音の残酷な言葉は、けれど、ヴェルベットに憎しみを抱かせることはできなかった。
(なぜ。なぜ、私を一人きりにしたの、忠誠など決して誓わなかった私を、逃がしたの。もう顔も思い出せない、声も忘れてしまった、薄情な私を!逃がすべきはほかにもいたはずなのに、なぜ!)
薔薇の杖を抱きしめる。蓋をしていた憎しみではない激情が胸をついた。
―愛しているわ、ヴェルベット。
「…愛していると言われて、憎めるわけがないでしょう、イデア様…っ」
憎しみで生きてはいけなかった。縋るように思い出していた青の主の、その言葉で生きていけた。―たとえ、姿かたちを真白に喰われても。
ヴェルベットは杖の茨を握りしめた。ヴェルベットの手のひらの一切を傷つけない薔薇に炎を咲かせて、空の青へ身を投げる。
(たとえ…イデア様の色さえ忘れてしまっても、私は生きるわ。契約を満了して、貴女のところへ逝けたのなら)
きっとだらしない姿で間抜け面を晒す主に会えるだろうと思うと、数百年と動かなかったヴェルベットの鉄仮面が、薔薇が咲くように綻ぶ。
紺碧の空に紅い軌跡を描く真紅の薔薇が、ヴェルベットの知らぬところで、一際鮮やかに咲き乱れた。