彼女はそう言って笑ったので
二度と覚めることのない眠りの淵から、不意に目が覚めた。はて、とイデアは首を傾げる。…傾げることのできる首があることに戸惑った。最期の際に首を跳ねられてしまったはずだ。
(死後の、魂だけの存在になった、のかしら。……違うわね。この身体は実体だわ)
身体の隅まで巡る魔力も、その魔力を溜める身の丈以上の杖も、青いドレスも帽子も、全てが生きていたころの儘にそこに在る。ひとつまたたきをして、とりあえず身体のことは置いておいて、と、状況を見るためにぐるりと周囲を見回して。
イデアの隣。何もなかったその場所が、強い魔力で赤く捻じれた。
その魔力の強さに武器を構える前に、イデアはひどく珍しく、実に数千年と生きていた中でもほとんど経験のない動揺を感じて硬直した。
あまりにも知った魔力だった。鼻をくすぐるのは、いつも香っていた匂いだった。……惨い使命を残してしまった、イデアのせいで永遠に近い生を孤独に歩むことになった、愛しいただ一人の従者。赤薔薇の美しい杖に、真紅の髪と瞳の、笑わない子。
知覚できるほどの凝縮された紅い魔力が、薔薇の花びらさえ纏って形を作っていく。その様を見つめながら、イデアの大魔導師と讃えられた知識を詰め込んだ頭脳が現状の答えをはじき出した。
(―――召喚された。魂そのものを使役するために。…その割に、行動も思考も制限されていないけれど)
目を閉じたままの赤薔薇の女の瞼が震える。…翻る真紅の髪を見て、イデアは指先の震えを隠せなかった。死に際に放った言葉は、正しく彼女の胸を貫けただろうか。
―ヴェルベット。
―赤薔薇の貴女。私を憎みなさい。憎み、嫌悪し、そしてそれを糧に生きなさい。貴女に全てを託す私を情けないと。敗者と。愚者と。罵りなさい。悪食王を斃すまで死ねない、一人きりのヴェルベット。
―ごめんなさい、私は先に、逝くわ。
(…憎しみを糧に、理性を手放すことなく生きていくことを願っていたのよ、ヴェルベット。長い生は容易く強固な意志を絶望へ突き落すわ。私はそれを知っていて、だからこそ、貴女に同じ道を歩んでほしくなかった。私を憎むことなど簡単で、あの刹那ではそれしかできなかったけれど。―強い、憎しみがあれば。生きていけると)
真紅の瞳が開かれてイデアを捉える。その瞳が憎しみに彩られていようとイデアはきっと歓喜しただろう。けれど真紅は、憎しみなど欠片も浮かべないまま、驚いたように瞬いて。
「泣いて、いらっしゃるの、イデア様」
戸惑ったように揺れた瞳。呆然とそれを見たイデアの心臓が大きく鳴った。まさか。―まさか。
「ヴェル、ベット…」
鈴の鳴るようだと言われていた声は掠れてしまっていたけれど、ヴェルベットは呼ばれた名に反応して常の無表情でイデアに近付いた。
憎しみも、嫌悪も、侮蔑も。一切を含まない真紅の瞳は、生きている間にさえ数回しか見たことのない優しさを湛えている。その瞳を見つめて、イデアは声をあげて泣きたくなった。
「…ああ、そう。イデア様は、私が貴女を憎んでいると思っているのね」
唇が震えて声を紡げないイデアの心のうちを読んだように、ヴェルベットが可笑しそうに瞳を細める。なぜわかったの、と、首を傾げるイデアに、ヴェルベットは微笑んだ。
「最期の際に貴女が考えていたことなんて、知っている限り一番わかりやすい策でしたよ?憎むことができれば簡単だったのに、私は貴女を憎むことなんてできはしなかった。―愛を伝えられて、憎しみを返すほど、貴女を嫌うことなんてできなかった」
震えるイデアの手を、ヴェルベットがそっと握る。やさしさと涙を湛えた真紅の瞳がイデアの海色の瞳を見つめた。
「ねぇ、イデア様。私は貴女を憎めないほど―愛していますよ」
最期の際に、返事ができていなかったでしょう?と、ヴェルベットは、薔薇が咲き誇るように、微笑んで。